「百人一首」とは歌道をひた歩む歌道家「藤原定家」が、落日の王朝とその文化的支柱たる和歌へ手向けたレクイエムです。
それは序章の天智、持統天皇、終章の後鳥羽、順徳院に明確な主題を見て取れるのですが、もちろんそれのみでなく、あいだを構成する重厚な楽章たちによって、交響曲としての百人一首に豊かな物語を生んでいます。王朝の幕開けからはじまり没落する他氏族と藤原氏の躍進、後宮と仏法の熱狂の裏で衰えゆく貴族、そして最後は落日に至る… 平安王朝のこの見事な栄枯盛衰の物語が、百人一首に編まれた歌々なにより歌人らによって構築されているのです。
数多ある歌集の中で「百人一首」だけが今に残り人々に愛されているのは、この歌集に紡むがれた壮大な物語、その感動にほかならないでしょう。
ここで藤原定家という天才歌道家が編んだ、「百人一首」という和歌と王朝へのレクイエムの各楽章をご紹介します。
・第一楽章「王朝の幕開け! 伝説のはじまり」
・第二楽章「失意に乱れる賜性の貴公子」
・第三楽章「没落氏族の最後の灯火」
・第四楽章「歌に逃れた名家のアウトロー」
・第五楽章「後宮熱狂! 女房の躍進」
・第六楽章「末法のざわめき、遁世を望む」
・第七楽章「歌道の確立、歌に生きる人々」
・第八楽章「王朝の落日、黄昏の帝王」
第一楽章「王朝の幕開け! 伝説のはじまり」
王朝物語はその祖「天智天皇」の歌から幕を開きます。一見地味な歌ですが、なくてはならない御製歌なのです。そして「持統天皇」は天武天皇の妻であり、天智天皇の娘でもあった女性です。「柿本人麻呂」と「山部赤人」の二人は通称「山柿の門」といわれ、歌道を歩むものが叩く最初の門だとされました。「大伴家持」とえば、日本最古の歌集「万葉集」歌の1割を占める実質の編纂者だと言われる人。後世の歌人達にとって、伝説的な人物が配されているのが第一楽章です。
一番「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)
二番「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」(持統天皇)
三番「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麻呂)
四番「田子の浦にうち出てみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ」(山部赤人)
五番「奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」(猿丸太夫)
六番「かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける」(大伴家持)
七番「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(阿倍仲麻呂)
八番「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」(喜撰法師)
九番「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」(小野小町)
十番「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」(蝉丸)
十一番「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」(参議篁)
第二楽章「失意に乱れる賜性の貴公子」
賜性の貴公子とは天皇の血筋を引くやんごとない貴公子を指しています。「在原行平」、「業平兄弟」の父は阿保親王で、その父は平城天皇。「陽成院」はその名のとおり元天皇であり、「元良親王」はその息子であった人です。これら貴公子達は高貴な出身でありながら、先代の凋落に伴い行き場を失っていきます。その落ち行く先は…、決して叶わぬ破滅の恋なのです。
十二番「天つ風雲のかよひ路吹き閉ぢよをとめの姿しばしとどめむ」(僧正遍照)
十三番「筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞつもりて淵となりぬる」(陽成院)
十四番「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」(河原左大臣)
十五番「君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ」(光孝天皇)
十六番「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む」(中納言行平)
十七番「ちはやふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは」(在原業平朝臣)
十八番「住の江の岸による波よるさへや夢のかよひ路人めよくらむ」(藤原敏行朝臣)
十九番「難波潟みじかき芦のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや」(伊勢)
二十番「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ」(元良親王)
二十一番「今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」(素性法師)
第三楽章「没落氏族の最後の灯火」
「藤にからまれた木は枯れる」という言葉があるように、藤原氏以外の氏族はことごとく没落していきます。坂上氏や紀氏は武人の家として一時期は公卿に列したこともありました。しかし応天門の変など藤原氏の策略によって落ちぶれていくのです。第三楽章には歌によって家筋を見つけた、没落氏族たちによる美しい四季の叙景歌が配されています。
二十二番「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」(文屋康秀)
二十三番「月みれば千々にものこそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど」(大江千里)
二十四番「このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」(菅家)
二十五番「名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」(三条右大臣)
二十六番「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」(貞信公)
二十七番「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」(中納言兼輔)
二十八番「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」(源宗于朝臣)
二十九番「心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花」(凡河内躬恒)
三十番「有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし」(壬生忠岑)
三十一番「朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」(坂上是則)
三十二番「山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり」(春道列樹)
三十三番「ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ」(紀友則)
三十四番「誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」(藤原興風)
三十五番「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(紀貫之)
三十六番「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」(清原深養父)
三十七番「白露に風のふきしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞちりける」(文屋朝康)
三十八番「忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな」(右近)
三十九番 「浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」(参議等)
四十番「しのぶれど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」(平兼盛)
四十一番「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひ初めしか」(壬生忠見)
四十二番「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみ越さじとは」(清原元輔)
第四楽章「歌に逃れた名家のアウトロー」
藤原氏が朝廷の主流となりライバル氏族がいなくなると、次第に藤原氏内での権力争いが生じてきます。ここに配された藤原の歌人たちは、いわばその負け組の人たちです。「清原元輔」と「大中臣能宣」は後撰集の梨壺の五人のメンバー。とはいえ官位は低く出世は望めない歌人たち。第四楽章には彼らを中心とした、悲しい恋の歌が配されています。
四十三番「逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」(権中納言敦忠)
四十四番「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし」(中納言朝忠)
四十五番「あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」(謙徳公)
四十六番「由良の門を渡る舟人かぢをたえゆくへも知らぬ恋の道かな」(曽禰好忠)
四十七番「八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり」(恵慶法師)
四十八番「風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけてものを思ふ頃かな」(源重之)
四十九番「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつものをこそ思へ」(大中臣能宣朝臣)
五十番「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな」(藤原義孝)
五十一番「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじな燃ゆる思ひを」(藤原実方朝臣)
五十二番「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」(藤原道信朝臣)
第五楽章「後宮熱狂! 女房の躍進」
摂関政治の全盛期は、後宮文化の最盛期でもあります。それを象徴するように、百人一首の中盤は女流歌人が多く配されています。彼女たちは女房であり、母であり娘であり妻でした。第五楽章には一夫多妻の通い婚という完全アウェーの世を強く生きた、彼女たちのリアルな恋歌が集まっています。
五十三番「嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る」(右大将道綱母)
五十四番「忘れじの行く末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな」(儀同三司母)
五十五番「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなを聞こえけれ」(大納言公任)
五十六番「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」(和泉式部)
五十七番「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな」(紫式部)
五十八番「有馬山猪名の篠原かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする」(大弐三位)
五十九番「やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな」(赤染衛門)
六十番「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」(小式部内侍)
六十一番「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな 」(伊勢大輔)
六十二番「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」(清少納言)
六十三番「今はただ思ひ絶なむとばかりを人づてならで言ふよしもがな」(左京大夫道雅)
六十四番「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木」(権中納言定頼)
六十五番「恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそおしけれ」(相模)
第六楽章「末法のざわめき、遁世を望む」
平安時代の中期以降、仏教が衰退し世が乱れていく、いわゆる「末法」に入ると信じられていました。王朝時代を再現する百人一首も中盤以降、坊主歌人の歌が増えていきます。末法のざわめきは次第に現実味を帯び、皇室、貴族、武家を巻き込んだ大規模な戦闘「保元の乱」が勃発します。その責を負った「崇徳院」は讃岐へ配流されました。天皇(上皇)の配流は淳仁天皇以来およそ400年ぶりの大事件です。王朝衰退の足音は、確実に忍び寄ってきています。
六十六番「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」前大僧正行尊
六十七番「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ」(周防内侍)
六十八番「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」(三条院)
六十九番「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」能因法師
七十番「さびしさに宿を立ち出でてながむればいづこも同じ秋の夕暮れ」(良暹法師)
七十一番「夕されば門田の稲葉おとづれて芦のまろやに秋風ぞふく」(大納言経信)
七十二番「音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ」(祐子内親王家紀伊)
七十三番「高砂の尾の上の桜さきにけり外山の霞たたずもあらなむ」(前権中納言匡房)
七十四番「憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを」(源俊頼朝臣)
七十五番「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり」(藤原基俊)
七十六番「わたの原こぎ出でてみればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波」(法性寺入道前関白太政大臣)
七十七番「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」(崇徳院)
七十八番「淡路嶋かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚ぬ須磨の関守」(源兼昌)
第七楽章「歌道の確立、歌に生きる人々」
院政が全盛を迎えると、藤原氏の政治力は次第にそがれていきます。一方で、藤原氏の中でも歌を生業としている家の家格が上がっていきました。それが「藤原顕輔」「藤原清輔」親子の六条藤家ならびに「藤原俊成」「藤原定家」親子の御子左家です。かつての紀貫之など、勅撰集の選者であっても五位がやっとの時代もありましたが、この時代には歌人が公卿に列することも珍しくなくなってきます。また「式子内親王」や「九条良経」など、高貴な出自でありながら、積極的に歌道に邁進する人たちも現れます。武家が台頭してくるなか、才能を人生を歌に捧げる人間が多く現れるのがこの時期です。
七十九番「秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ」(左京大夫顕輔)
八十番「長からむ心もしらず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ」(待賢門院堀河)
八十一番「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」(後徳大寺左大臣)
八十二番「思ひわびさても命はある物を憂きにたへぬは涙なりけり」(道因法師)
八十三番「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」(皇太后宮大夫俊成)
八十四番「ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞいまは恋しき」(藤原清輔朝臣)
八十五番「夜もすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり」(俊恵法師)
八十六番「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」(西行法師)
八十七番「村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立のぼる秋の夕暮れ」(寂蓮法師)
八十八番「難波江の芦のかりねのひとよゆゑ身をつくしてや恋わたるべき」(皇嘉門院別当)
八十九番「玉の緒よ絶えなば絶ねながらへば忍ぶることのよはりもぞする」(式子内親王)
九十番「見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず」(殷富門院大輔)
第八楽章「王朝の落日、黄昏の帝王」
治承・寿永の乱いわゆる源平合戦の後、平氏政権の崩壊し鎌倉幕府が成立します。鎌倉幕府の成立は本格的な武家政権の誕生であり、政治の中心が京から関東に移ったことを意味します。もはや京の皇族、貴族は文化や歴史に拠り所を求め寄生する存在へと落ちぶれたのです。一方、鎌倉方にも京の文化、和歌を愛する人が登場します、第三代将軍「源実朝」です。しかしこの帝王も暗殺という悲劇に消えます。承久の乱により武家政権は盤石なものとなりますが、敗れた帝王「後鳥羽院」と「順徳院」の親子は配流され、王朝時代は完全に幕を閉じたのです。
九十一番「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」(後京極摂政前太政大臣)
九十二番「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし」(二条院讃岐)
九十三番「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」(鎌倉右大臣)
九十四番「み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり」(参議雅経)
九十五番「おほけなく浮世の民におほふかなわがたつ杣にすみぞめの袖」(前大僧正慈円)
九十六番「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」(入道前太政大臣)
九十七番「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」(権中納言定家)
九十八番「風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける」(従二位家隆)
九十九番「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」(後鳥羽院)
百番「ももしきや古き軒端のしのぶにもなをあまりある昔なりけり」(順徳院)
いかがでしょう、各章のタイトルを追うだけでも平安王朝のドラマを感じて頂けたと思います。百人一首とは和歌の入門書であり平安歴史の入門書でもある、古文や古代歴史を学ぶにはそれぞれの教科書などではなく一編の百人一首で十分です。きっと楽しくスリリングにそしてドラマチックに、日本の古典が身につくと思います。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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