【百人一首の物語】六十八番「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」(三条院)

六十八番「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」(三条院)

和歌と現代短歌の違いの最たるは、「リアリティ」というところにあると思います。現代短歌は「我」が生きる生の実感をえぐるように吐き出したところに、時代がマッチして名歌が生まれるのですが、斎藤茂吉、塚本邦雄しかりですね、これが和歌では必ずしもそうでないのです。
和歌では後世に伝わる女歌(待つ女)を定家が詠んでいたり、逆に男歌(しのぶ男)を式子内親王が詠んでいたりするケースなどいくらでもあり、ようするに他者になりきった虚構が完全に許されているのです。個人のリアルの表現にこそ価値を認める短歌とはまったく違うことがわかります。

和歌の虚構はなにも恋だけはなく、大金持ちの貴族が貧乏暮らしをなげく歌もあったりします。百人一首の一番歌の天智天皇もこれですね。ですから、四十五番の謙徳公や九十一番の良経がいくらむなしき人生を歌っても、それがそのままその人のリアルである根拠はまったくないのです。

しかし、この歌はそうじゃなさそうです。六十八番はまさに作者の「リアリティ」が詠まれていると信じてよいでしょう。

詠み人は三条院、第六十七代の天皇です。この方が詠んだのが、「心ならずも、こんなに辛い世の中に生きながらえたら…  きっと恋しく思い出すんだろうなぁ、今夜の月を」です。
いかがでしょう、一国の元首たる天皇が詠んだとはとても思えない、絶望の極致といったような歌です。さきに説明したような和歌の文脈を踏まえれば文学的な過剰表現とも捉えられそうですが、そうではありません。

詞書きには「例ならずおはしまして、位など去らむと思しめしけるころ、月の明かりけるをご覧じて(帝位を譲ろうとしていたころ、明るい月を見て)」とあります。この時代、政治の実権は藤原道長にあり、天皇といっても名ばかり、ついに道長は自らの孫である後一条を帝位につかせたいために、摂関政治の成立ですね、そのため三条天皇に譲位を強引にも迫ったのでした。

天皇は譲位を決心、そんな夜に月を見上げて… じつは三条院、目の病気を患ってました。ですから「恋しかるべき夜半の月かな」とは、切実に、これで見納めかもしれないしれない月であったのです。

三条院にとって月とは希望であったのでしょう、

「秋にまた逢はむあはじもしらぬ身は今宵ばかりの月をだにみむ」(三条院)
「月影の山の端わけて隠れなばそむく憂き世をわれやながめむ」 (三条院)

月だけは決して裏切らない、こう信じた三条院は「心にもあらで…」を詠んだ翌年に譲位、さらにその翌年に亡くなってしまいます。この悲劇のリアルは、和歌文学の読者にはちょっと過激だったかもしれませんね。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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