【百人一首の物語】三十六番「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」(清原深養父)

三十六番「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ」(清原深養父)

古典和歌はつまらないという人に言わせると、その理由の最たるは「理知的だから」です。理知というと知識つまり掛詞や枕詞など言葉遊びや見立てや擬人といった修辞法を連想するかもしれませんが、もっとも重要なのは因果関係による構成です。例えば「鶯が鳴いた→春が来た」とか「花が散った→春が尽きた」というようなことで、古典和歌はほとんどがそれによって詩情を形成しています。ですから掛詞も見立ても使っていない、純写生風な深養父のこの百人一首歌も、「あっという間の夜明け→月を探してみる」というわざとらしさが匂うかぎり、十分理知的で古今風といえるのです。ちなみに深養父はこの偽写生歌の歌の名手です※。

ところで「理知」の根本とは「自然」と「人事」の合一です。貫之は「心に思ふことを見るもの聞くものにつけて 言いだしたもの」が和歌だと言ってるんですから、和歌から理知がなくなったら和歌でなくただの自己主張、みごとに明治以後の短歌になってしまいますね。

さて深養父の百人一首に戻ると、一言で「夏の短夜」の歌です。出典は古今集の夏部ですが、「ホトトギス」が登場しない少し異例の歌です(古今集夏部三十四首のうち、なんとホトトギスは二十八首に詠まれています)。詞書には「月のおもしろかりける夜、暁方に詠める」とあり、夜もすがら親しい風雅の友と語り合っていたのでしょう。一夜の待ちぼうけ説もなきにしもあらずですが、そんな朝にほのぼのと有明月を探す余裕は、私にはありません。

※「花ちれる水のまにまにとめくれば山には春もなくなりにけり」(清原深養父)
※「幾世へてのちか忘れむ散りぬべき野辺の秋萩みがく月夜を」(清原深養父)

(書き手:歌僧 内田圓学)

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