【百人一首の物語】九十番「見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず」(殷富門院大輔)

九十番「見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず」(殷富門院大輔)

わかりづらい歌ですよね? それはまずこれが本歌取りの歌だからです。ということで先に典拠となった歌をご紹介しましょう。

「松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくは濡れしか」(源重之)

松島の雄島の磯で漁をする漁師でも、私の涙で濡れた袖ほどに濡れちゃあいませんよ。と、女に振られてしまった惨めさ、口惜しさがみごとに表現された歌です。
ところで、なんで「松島の雄島」なんでしょう? 重之といえば百人一首の「風をいたみ岩うつ波の」が知られるように海辺の風景が好きだったのかもですが、たぶん父である兼信が陸奥に住み着いていたことに故するのでしょう。重之は藤原実方に随行して陸奥に下りその地で亡くなるのですが、これも本望だったのかもしれませんね。

閑話休題

ということで殷富門院大輔の歌も“恋人への恨み節”なのですが、問題は「色はかわらず」です。じつのところ「色」とは暗に「血の色」なのです。

「お見せしたいものです、雄島の漁師の袖でさえ濡れに濡れても色までは変わりません(が、私の袖は血の涙で真っ赤っかです!!)」。と、まあ仰々しいというか、おどろおどろしいというか、恨み節もここまでくるとなんだか脅迫めいて聞こえます。

しかし「紅涙」は、和歌の恋においてきわめて常套的な表現でありました。

「紅のふりいでつつなく涙には袂のみこそ色まさりけれ」(紀貫之)

などが一例ですが「紅涙」の歴史は古く、例えば人麻呂の「泣血哀慟歌」※1にはすでに悲劇の極限としての用例が見えます。実際のところ「血涙」は漢詩※2においても常套的な表現であり、その伝統を遡ると中国六朝時代の閨怨詩に至るとされ、おそらく本朝歌人は「玉台新詠」などから摂取したものと思われます。

さて百人一首歌ですが、これは歌合せのための題詠であり実情ではありません。詠み人の殷富門院大輔は八十五番の俊恵法師が主催する「歌林苑」に出入りし、「千首大輔」と評されるほど多作で知られた、当時名うての女流歌人でした。本歌の抒情を「色」の一文字であっさりと凌ぐなど、たやすいことだったのでしょう。

※1「秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも」(柿本人麻呂:妻死之後泣血哀慟作歌)
※2「君王面を掩て救ひ得ず 迴り看れば血涙相い和して流る」(白居易:長恨歌)

(書き手:歌僧 内田圓学)

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