【百人一首の物語】十一番「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」(参議篁)

十一番「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟」(参議篁)

蝉丸に続いて採られたのは参議篁、実名を小野篁という。ちなみに参議とは中納言に次ぐポジション、これ以上を公卿と言って最高幹部の一員をなす。
ところで百人一首を見回してみると、多くが官職を伴ってその名が採られていることに気づく。ご存知の方も多いと思うが当時の高級貴族らは実名を「諱(忌み名)」として避け、官職で呼ぶことを普通としていた。これが古典文学をややこしくする元凶だというのは別の話であるが、翻って実名がダイレクトに採られている紀貫之などと言う人たちは、残念ながら高級でない貴族であったということだ。

さて篁、その参議への道のりは順風満帆ではなかったらしい。遣唐使の渡唐に二度失敗、さすがに嫌になったのか三度目は船の損傷を理由に乗船を拒否したところ、これが嵯峨上皇の怒りにふれ隠岐に流される羽目になった。
百人一首歌はこの出立にさいし詠まれたものである。八十島は七類ではなく難波津から見渡した瀬戸内の島々、「人には告げよ」と言うもののどこか投げやりで同じく隠岐に流された後鳥羽院のような覚悟※は決して得られない。おそらく篁自身、早々に帰京できる目算があったのではないか。まあ確かに遠流までの罪とも思われず、実際許されて二年で都に戻っている。
ということで同じ百人一首の羇旅歌でも、仲麻呂の情趣には遥か及ばない。

※「我こそは新島守りよ隠岐の海の荒き波風こころしてふけ」(後鳥羽院)

(書き手:内田圓学)

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