わたしたち「二条流」歌道とは

令和和歌所は「二条流」を標榜しています。それはすなわち、「和歌の正統を受け継ぐ」という覚悟です。

和歌史をご存知ない方のために、ここで簡単に二条流について説明しましょう。平安末期から鎌倉時代にかけて、藤原北家御堂流である「御子左家」は、俊成、定家そして為家の活躍によって“和歌の家”の地位を不動にしました。

※為家の後妻阿仏尼は、その誉れを日記に記しています

さてもまた、集をえらぶ人はためし多かれど、二たび勅をうけて、代々にきこえあげたる家は、たぐひなほありがたくやありけむ

十六夜日記

しかし為家の子、為氏とその庶弟為教、為相とは相続などをめぐって不和となり、為氏は二条、為教は京極、為相は冷泉と家を分けてしまいました。やがて二条家と京極家は勅撰集撰者の座を競い合うようになりますが、この事情は複雑で、それぞれの家が仕えた皇室、すなわち大覚寺と明院統の対立の場外乱闘でもありました。

ちなみに同じ頃、冷泉家はほとんど訴訟のことばかりで、都の歌界に対しては蚊帳の外の状態でした。ただそのポジションが功を奏したのか!? 以後も冷泉家は歌壇において表立った活動をなさぬまま、現代まで家を残すことに成功します。(冷泉家は歌の家というより、伝来の典籍及び古文書類の保存を担う家といえるでしょう)

閑話休題。二条家・二条流は為氏が撰者となった「続拾遺和歌集」以後、編まれた十の勅撰集において、そのほとんど(七つの集)の編纂に関わりました。一方の京極家・京極流は「玉葉和歌集」、「風雅和歌集」のみでしたが、しかし文学としては、京極流が唱えた“実感と繊細な感覚”で詠まれた、いわゆる“京極風”の歌の方が圧倒的に評価されています。
二条家は嫡流ということもあって、為家そして定家が晩年に決着した“古典主義”を盲目的に墨守し、これを伝統として継承していったのです。すなわち権威こそあれ、もはや文学ではなかったのです。京極流(京極為兼)はこれを十分理解した上で、二条流の痛いところを突いたといえるでしょう。

※一時期、冷泉流も今川了俊・正徹・心敬らの歌人が出て、“新古今歌風”の再興を計りますが、これも伝統を墨守する二条流へのアンチテーゼに過ぎず、長続きしませんでした

しかし、しのぎを削りあった二条・京極二家の結末はあっけいないものでした。斬新な歌風で鳴らした京極流も、あくまでも伝統的な詠みぶりあっての新味であり、早晩ネタは尽きてトリビアリズムに陥ってしまい、その歌風は瞬く間に廃れ、継承者が育つことはありませんでした。決定打は持明院統を継いだ後光厳院が二条流を重用したことでしょう。思わしい後嗣も得られず、京極家は断絶してしまうのです。

そして二条家、為氏の子為世には有力な子息が三名おり、それぞれ宮廷歌壇で活躍していました。しかも京極流と違って祖先から受け継いだ平凡な歌に甘えていればいいのです、その将来は安泰であるはずでした。が、実情はそうではなかった… 二条流の歌道家としての実権は、いつしか為世に師事していた歌僧である頓阿が握っていたのです。それは「新拾遺和歌集」撰進において、撰者為明(為世の孫)が途中で亡くなった後を頓阿が担ったことからも明白。さらに二条家は嫡流の為遠(こちらも為世のひ孫)が足利義満に好まれず、その子為衡は亡くなり、そのまま家ごと断絶してしまったのでした。

ということで、わたしたち令和和歌所の標榜する二条流は、血統としては、とうの昔になくなっています。とすれば、いったいだれから歌風を学ぶのか?

それについて答える前に、そもそもなぜわたしたちが「二条流」を目指すに至ったのか、説明したいと思います。それは端的に二条流が伝統、すなわち「古今和歌集」の詠みぶりを正しく伝えてきたからです。

「古今和歌集」は言わずもがな、初代の勅撰和歌集であり、後の日本文化・文学にすべてに影響を与えたともいえる、いわば日本文化・文学における聖典というべき歌集です。これを学ばずして、日本の文化・文芸を語ることはできません。しかし、明治以後、革新だ何だとひたすら新しいことばかりを有難がる連中が幅を利かせ、あげく伝統を軽視した結果、例えば詩歌では「現代短歌」といって、もはや歌の体をなさない“おしゃべり(口語)”が当たり前になってしまいました。今の日本人が嘆く軽薄さは、このような伝統軽視の態度に要因があるといって過言ではないでしょう。

現代の、さまよえる日本人への処方箋は伝統(基礎・型)の学び直し、やり直しです。ですからわたしは、「古今和歌集」そしてそれを歌道ならしめた「二条流」を受け継ぐべきと定めました。おそらく俊成そして定家が古今集の伝統に立ち返ったのも、同じような心があったのではないでしょうか。

と、このように鼻息を荒くしてしまいましたが、実のところわたしは純粋に古今和歌集の平明・温雅の詠みぶりに憧れているのです。

では話を戻して、血統の絶えた二条流(狭義の二条流)をいかして学ぶか。実のところその問題は、新しいようで古いものでした。かの「古今伝授」などは、その答えのひとつでしょう。

血脈は絶えた二条家でしたが、歌風としての「二条流」は、頓阿の子孫である尭孝・尭恵すなわち「常光院流」が受け継ぎ、その後も堂上の歌風として生き残っていました(広義の二条流)。
「古今伝授」は、尭孝に学んだ東常縁を発端とし、初代勅撰集である「古今和歌集」の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えるもので、東常縁から宗祇そして以降さまざまな方面に相伝されていきました。(このもっとも知られるエピソードは、細川幽斎と「田辺城の戦い」でしょう)

しかし実のところ「古今伝授」とは正体不明のいわば鵺のような存在であり、あの「三木三鳥」なんての目くらましもいいところ。ありていに言って古今伝授の価値とは、宗教的・祭的儀式による権威の担保でしかありません。ですから現代において、古今伝授によって“二条流歌風を受け継ぐ”なんてことはできないのです。

伝授による相伝ができないのなら、いかにして二条流を学ぶのか。それは定家の言葉にヒントがあります。

歌に師匠なし、ただ旧歌を以て師となす。心を古風に染め詞を先達に習はば、たれ人かこれを詠ぜざらんや


「詠歌大概」藤原定家

かつての二条流歌人はこの世にいません、しかし彼らの歌はいくらでも遺っています。近しいところでは頓阿の「草庵集」でしょう。草庵集は血統を失った二条流歌人において、もっとも重んられた歌集です。まずはこれに親しみを覚えつつ、当然ながら歴々の勅撰和歌集、なかでも言うまでもなく「古今和歌集」を最大の手本、そして到達すべき道と定め、歩み続けたいと思います。

ということでみなさん、令和和歌所の「歌塾・あかね歌会」で古典和歌の基礎・型を学び、正統的な和歌をともに詠み、後世に伝えていこうじゃありませんか。

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和歌を詠みあい継承する「あかね歌会」

※参考図「二条流の系譜」

(書き手:内田圓学)

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