【百人一首の物語】三番「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麻呂)

三番「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麻呂)

平安王朝の物語といえる百人一首を章立てした場合、冒頭から十二番まではさしずめ「王朝の幕開けと伝説歌人」と呼べるでしょう。その伝説中の伝説、キングオブ歌人こそが柿本人麻呂です。人麻呂は古今集の仮名序において「歌の聖」と讃えられ、平安も下ると「人麻呂影供」といって歌人らに神と崇められるほどです。

柿本人麻呂、その名は「日並(草壁)皇子」の挽歌※1においてはじめて登場します。王権のため、いや愛する夫と息子を亡くした持統天皇のため、彼は宮廷歌人として心を慰める流麗の儀礼歌を残しました。その実人麻呂という歌人がいなかったら、今わたしたちが抱くような優美で高妙の印象を万葉集に見つけられなかったとさえ思います。

しかし、それだけでは人麻呂が歌の聖となったわけではありません。血涙止まぬ悲しみ、妻に捧げた慟哭の挽歌※2。歌にはじめて「“まことの心 ” を託したことこそが、人麻呂が成した偉業であったのです。

しかしです、百人一首歌にはこのような“人麻呂らしさ ” がみえません。「拾遺和歌集」の恋部に人麻呂作で採られた歌であるのですが、「万葉集」巻十一に載る類歌※3は作者不明で、実のところ本人の手によるものではないというのが大方の見解です。それでもこの歌は愛されていて「和漢朗詠集」「三十六人撰」をはじめ、定家も自身の秀歌集、歌論にはことごとく人麻呂詠として取り上げられました。

百人一首は歴々の勅撰集から歌を引いていますが、哀傷部つまり人の死を悼んで詠まれた歌はいっさい採られていません。ですから撰歌の基準として「人麻呂らしい宮廷の挽歌」は採られなかったのだと考えられます。でも本質的には、撰者たる定家は人麻呂挽歌にある“匂い”を嫌悪したのでしょう、その “匂い” とは「天武朝」の匂いです(これは撰者だけではなく、平安貴族が共通して感じていたはずです)。

一番歌、天智天皇詠で述べたことですが、百人一首とは王朝の歴史物語です。しかもこれは天智天皇を太祖とする王朝の物語なのです。ですからそこに、天武朝を感じさせる事柄は一切無用だったのです。
聖武天皇時代の宮廷歌人だった山部赤人にしてもそう、かれら天武朝に連なる宮廷歌人らが拾遺集以後に再評価されるのですが、それは宮廷歌人としてではなく、あくまでも伝説的な四季や恋歌の名手として評価されたのでした。それは採られた歌々、もちろん百人一首歌からもあきらかでしょう。

さて、その人麻呂詠は「こんな秋の夜長に私は一人ぼっち…」という、愛しい人に逢えない苦悩を詠んだ恋歌です。見どころはやはり「序詞」、一人寝の長さを山鳥の尾に例えた機知でしょう。しかも 山鳥には「夜に雌雄別れて寝る」という設定が踏まえられていますから、これはやはり詠み人のひとつの上手さです。
ちなみに「長い」というのを唐詩人の李白などにやらせると「白髪三千丈」となり、さすがのスケールですが歌としてはちょっと硬いですね。この人麻呂詠が愛唱され続けているのは描かれた抒情だけでなく、「の」「の」「の」 「の」 「を」 とこれでもかと助詞を入れた、日本語を駆使した和歌にしかできない軽妙なリズムも大きかったと思います。

※1「ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも」(柿本人麻呂)
※2「秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも」(柿本人麻呂)
※3「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を」作者不明

(書き手:内田圓学)

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