【百人一首の物語】四番「田子の浦にうち出てみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ」(山部赤人)

四番「田子の浦にうち出てみれば白妙の富士の高嶺に雪はふりつつ」(山部赤人)

唐詩では杜甫を「詩聖」と称えますが、和歌でも歌の聖(ひじり)といわれる方がいます。だれあろう三番柿本人麻呂と四番山部赤人のご両名で、大伴家持にして「山柿の門」と憧憬をもって讃えられるなど、和歌ではつねづね歌の神様として祀られてきました。
ただ和歌史を振り返ると、人麻呂と赤人を同列の「神」とするのは難しいかなと思います。やはり柿本人麻呂こそ、和歌のゆるぎない唯一神でしょう。

とはいえ、赤人の存在もけっして小さくない、人麻呂以後、宮廷には笠金村や車持千年らの巧な歌人が続々現れたわけですが、残念ながら後世にほとんど名前を残せませんでした。端的に、彼らは人麻呂の亜流としか見られなかったのです。
その点、赤人は違います。拾遺和歌集において早々に勅撰集に採られ、このように定家によって百首歌の人麻呂のペアに撰ばれるに至るのですから。つまり赤人はエセ人麻呂に収まらなかったということですね。

実のところ人麻呂と赤人で、例えば同じ「従駕の歌」でも感動の源泉がまったく違うのです。前者が神代から続く歴史にあれば、後者は率直な自然風景にありました。赤人は、個人的主観の目で「客観的な写実」を描いたということですね、ちなみに赤人はこのジャンルの先駆者といえます。

百人一首歌は万葉集にあるものを新古今に採りなおしたものですが、赤人評価のクライマックスはまさにこの頃かもしれません。繊細な写生の目を取り戻しつつあった新古今歌人において、赤人の歌は打ち破るべき大きな目標であったのです。

そしてもうひとつ、赤人が和歌史において成し遂げた大事件があります。それは長歌を駆逐したということです。まあそんなことは誰も言っていない、私の持論ですが、、

万葉集の巻一、二などをみてわかるように、人麻呂の時代に歌といえば長歌でありました。これは歌に呪術的な力を認めていたためです。しかし赤人は歌を呪術ではなく文芸と理解し、無意味な言葉の羅列を不要としました。

万葉集所収の下の長歌と短歌を比べてみてください。

不尽ふじの山を望みる歌一首(長歌)并せて短歌
「天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴たふとき 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放さけ見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 富士の高嶺は」
反歌
「田子の浦ゆ 打ち出て見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」(山部赤人)

長歌でながったらしく歌っていることが、短歌に見事におさまっているように思えません?
まあ確かに、長歌にみえる「土地褒め」的な要素が短歌で消え去っています。帝に捧げる歌、宮廷歌人としての役割は、短歌では果たせなかったことでしょう。しかし現代の私たちからすると、一首に宿る抒情、冬の富士の美しい姿は短歌にこそ感じられると思うのです。赤人はそれに気づいた、もっとも早い歌人だったのです。

(書き手:内田圓学)

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