【百人一首の物語】九十六番「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」(入道前太政大臣)

九十六番「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」(入道前太政大臣)

「新勅撰和歌集」所収の歌、採られた部は「春」ではなく「雑」なので、主題は古りゆくわが身にあります。

「落花を誘う風が強く吹く庭は、花が雪のように降ってくるが、本当に古りゆくのは花ではなくわが身だったのだなぁ」

定家によるもうひとつの百人一首とされる「百首秀歌」でこの歌は最終を飾ります。しかし、花の「見立て」や三句目の「ならで」の逆接などきわめてわざとらしく、ことさら優れた歌には聞こえません。これも定家晩年の古今回帰、余情妖艶を求めた結果でしょうか? たしかに歌は九番の小野小町詠に類似しています、ただ小町の方が技巧、声調ともに抜群に優れています。

内容はひとまず、定家はこの百首歌に入道前太政大臣こと「西園寺公経」は外せなかったのでしょう。
公経は源頼朝の親戚筋を妻とし親幕派貴族の筆頭たる人物でした。それは承久の乱の前に上皇側に拘禁されたことからもわかります。乱の結果はご承知のとおりですが、その後の朝廷は公経を中心に立て直されて自身は太政大臣にまで昇りました。
じつのところ定家は公経の義理の兄なのです。定家晩年の栄達は、この公経の存在なしにはありえませんでした。権中納言の位も「新勅撰集」単独撰出の任も、義兄弟公経のおかげさまであったのです。

という義理、忖度からこの百人歌に加えた、ということもあるのかもしれませんが、百人一首が王朝の栄光盛衰の道を示すものだとしたらそういった意味、すなわち公家没落のクライマックスとしての役割を公経に背負わせたとみるのが妥当でしょう。たしかに公経は位人臣を極めた人物ではありますが、それは武士という新階級に懇ろにおもねった結果、ありがたく頂戴したものだったのですから。

つまり公経の歌の「庭の雪」は、順徳院における「軒のしのぶ」であったわけです。

ところで新勅撰集は「宇治河集」(「もののふの八十氏河」に所以)と揶揄されるほど武士の歌が採られていますが、百人一首では歌の弟子であった九十三番の実朝を例外として武士歌人を採っていませんよね。そればかりか新勅撰集では忖度して除いた後鳥羽院と順徳院で最期を閉じている。ここに百人一首に意味、王朝の歴史物語の再現を感じるのはあたりまえの感想といえるでしょう。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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