百人一首とは、和歌と王朝へのレクイエム

天智天皇から始まり順徳院で終わる、百人一首の生命はこの一点に尽きます。
百人一首だけ眺めていてもわかりずらいのですが、他の撰集と比べてみると、この百首歌の際立つ特異性が理解されるでしょう。

百首歌という形式自体はけっしてめずらしいものではありません。古いものは「好忠百首」「重之百首」また「堀川百首」「久安百首」など…  いくらでもその例を挙げることができます。勅撰集がそうであるように、どんな百首歌もかならず部立や配列といった構成を持っています。それが百人一首は歌人の年代順に並んでいる。
じつのところ歌人の秀歌撰というのもたくさんあって、代表的なところでは藤原公任による「三十六人撰」、後鳥羽院による「時代不同歌合」なども有名ですが、これらが柿本人麻呂ではじまり、紙上歌合せの趣を強くしているのに対して、百人一首は天智天皇をその一番に採り、多少のブレはあれ年代順の配列に芯を通し最後を後鳥羽、順徳院で締める。ここに編者の哲学がなくてなんであるかです。

天智天皇といえば法律(律令)を整え「天皇」号ならびに「元号(大化)」を制定し中国からの独立を成した人物、ようするに日本国を起こした王朝の祖でありました。一方の後鳥羽、順徳院は承久の乱を起こし、王朝の栄華にピリオドを打った張本人。天智天皇から始まり順徳院で終わる百人一首とは、端的に「王朝の歴史物語」の再現であるのです。

ところで王朝の歴史物語であるならば、「記紀神話」からはじめるのもありですよね。たとえば古今集の仮名序には歌のはじまりとして須佐之男命の名が記されています。しかし百人一首をそうしなかったのは、王朝は王朝でも平安王朝の物語にこだわったからでしょう。
仮名序にあるとおり万葉よりこの方、和歌は「埋もれ木の人知れぬこと」となっていました。それを宮廷の文芸に再興したのが平安時代の醍醐天皇であり、ついに初の勅撰集(古今和歌集)と結実したのでした。以来、和歌は宮廷文学の中心となり、貴族たちの生活の一部となりました。
百人一首はすべての歌を歴々の勅撰集から採集していますが、これはもちろんこの百首歌に格式を求めたから。ですから百人一首は平安王朝の歴史物語であるとともに、正統的な歌の歴史でもあるのです。

ちなみに「平安王朝」というのなら山背の地に都を築いたの桓武天皇からはじめるべきだという意見もあるでしょう。ところが平安王朝の太祖は天智天皇であるという歴史観が、当時の人たちにはあったのです。じつは桓武の父光仁の前代までは天武系の皇統が続いていました、これが光仁の即位によっておよそ百年ぶりに天智系へ回復したのです。これは革命王朝であり、平安王朝の礎として天智天皇が強く意識されることになりました。

天智天皇からはじまり後鳥羽、順徳院で終わるという平安王朝の歌物語、こんな壮大な百首歌をだれが編纂したのでしょう。そんなの当然、藤原定家だろうと一蹴されそうなのですが、そう簡単な話でもないところが百人一首のまたおもしろいところ。

藤原定家が百人一首を編んだとされる根拠は、おもに彼の日記に求められます。

「天智天皇ヨリ以来、家隆・雅経二及ブ」
明月記

なんだかモヤモヤしませんか、だって「家隆、雅経に及ぶ」ですよ。百人一首だったら「後鳥羽、順徳に及ぶ」じゃなきゃおかしくありませんか?
定家は百人一首とほぼ内容を同一にする「百人秀歌」という秀歌撰も編んでいるのですが、これも最後が入道前太政大臣(藤原公経)ですから日記の内容とあわない。そんなこんなで百人一首を「宇都宮蓮生」が撰んだとか、後世に百人一首を見出した連歌師の「宗祇」なんて憶測も飛び出しました。

それでも百人一首の編者が藤原定家であることは揺るぎません。

定家は自身のための秀歌データベースを複数作成しました。それが「近代秀歌」であり「二四代集」なのですが、じつのところこれらに収集した歌がことごとく百人一首歌と重複しているのです。「近代秀歌」には九十二首が「二四代集」にいたっては九十四首が百人一首と重複し順序までもが同じなのですから、これを偶然というほうが無理でしょう。

なにより藤原定家という人の人格です。百人一首撰集の前、定家は「新勅撰集」を単独で編むという歌人としての誉れを得ます。しかし、ここで採った後鳥羽、順徳、土御門三上皇の歌を九条道家、教政親子の指示に従って削除してしまったのです。これは定家にとって相当の屈辱であったことでしょう。思い出してください、歌道の正しさためには帝王(後鳥羽)にさえ牙をむく男、それが狂気の天才藤原定家です。定家は歌人としての後鳥羽、順徳院を心底認めていましたから、それを反幕派などというつまらぬ政治的な理由で外さざるえなかったことは、彼にとって到底納得できることでなかったと思います。

定家は捻じ曲げてしまった信念を取り戻すため、百人一首に後鳥羽、順徳院を採った。みずからの正しい歌道をまっとうしたのです。

そのうえで、百人一首にはこんな疑問も残ります。
それは歌道の大家藤原定家が撰んだにしては駄作が多い、という疑問です。

「入るべきがいらぬものあり、入りたるも作者のむねと思はぬもあるべければ」
百人一首改観抄(契沖)

と、このような感想はだれしもが抱いていることでしょう。
定家は「新古今」という言葉の芸術を創りあげた張本人であったはず。余情妖艶を標榜し、詞によって幻想的世界を表象させた天才、これこそが藤原定家という歌人であったはずです。しかしそれが百人一首では見る影なく、ほとんどを古今集をはじめとする三代集から選出、千載・新古集の収歌歌もことごとく古今調という始末です。いったいどうしたことか…

じつのところ定家は五十歳ごろを境に理想とする歌の風体がずいぶん変わってしまいました。「新古今集」、「拾遺愚草」の歌風と「新勅撰集」などの歌風、撰歌を比べれば一目瞭然なのですが、一言でいうと彼は歌の革命家から古典主義者へと180度方向転換したのです。

「詞はふるきを慕い」「寛平以往の歌に習う」…

百人一首は定家が七十四歳の時の仕事でありました。古今集をはじめとする三代集を崇め奉るようになっていた翁は、この百首歌をその理想のままに仕上げたのです。
じつのところ定家に関わらず、この時代の貴族は多かれ少なかれ古典主義でありました。擬古物語の流行もそうですし、慈円による歴史書「愚管抄」もその表れでしょう。それは武家の台頭に対峙する公家のある意味では執念、ある意味では諦めであったかもしれません。百人一首をつまらなくしたのは、定家ではなく彼が生きた時代のせいなのです。

さて、最後です。百人一首は「王朝の歴史物語」であるとしました。ではそこに紡がれた物語とはいったいなんであったのか。
それは「レクイエム」です。みずからが起こした歌の革新の、そして落日の明らかなる平安王朝へ手向けた哀悼であったのです。(百人一首には「哀傷歌」が一首も採られていませんが、百首全体で哀傷を表現するところに、この百首歌の見どころがまたあるでしょう)

百人一首というレクイエムの加護か、今も和歌と皇室はほそぼそと生きながらえています。

和歌と平安王朝へのレクイエム、「百人一首」の各楽章を知る!

(書き手:歌僧 内田圓学)

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