【百人一首の物語】八十五番「夜もすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり」(俊恵法師)

八十五番「夜もすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり」(俊恵法師)

寝室の扉の隙間。そこは本来、愛しい人が訪れる希望の通い路である。しかし訪れがないとなれば一転、底知れぬ絶望へと続く蝦蟇口となる。ああ、つれない夜は明けるのも遅い。和歌で典型の「待つ女」の歌ですが、この繊細な心情は実体験なしには描けないでしょう。
と思いきや、じつのところ詠み人は男、しかも坊主でありました。二十一番の素性法師もそうですが、坊主の「待つ女」ほどしっとり聴かせるのは、現実の恋を禁じられたゆえのたくましき妄想力にほかなりません。

「今こむといひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな」(素性法師)

さて俊恵ですが、彼の父は七十四番「源俊頼」であり祖父は七十一番「源経信」であるという、百人一首に唯一三代連続で採られた、由緒ある歌の家の出自でした。しかし父、祖父が宮廷歌壇で活躍したのに対し、俊恵は若くして出家、自らの僧坊(歌林苑)を白川に設け活動の中心にしています。そこには多くの僧俗など地下の歌人はもちろん、藤原清輔や源頼政、殷富門院大輔といった宮廷歌人らも出入りして、当時では画期的な歌の交流の場であったようです。

俊恵の歌風は一般的に「幽玄」と評されるのですが、先のような詠歌の環境の違いもあってか宮廷歌壇の重鎮俊成の「幽玄」とは相いれなかったようです。歌の弟子、鴨長明による「無明抄」の一説をごらんください。

時に俊成が自賛歌として

「夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里」(藤原俊成)

を挙げたところ、俊恵はこう言い放ちました。

「かの歌は、身にしみてという腰の句いみじう無念におぼゆるなり、これほどになりぬる歌は、景気を言ひ流して、ただそらに身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじう言ひもてゆきて、歌の詮とすべきふしを、さはと言ひ表したれば、むげにこと浅くなりぬる」
無明抄(俊恵俊成の秀歌を難ずること)

「身にしみて」などとわざとらしく詠みこんでいてダサい!
そして自らの自賛歌で、幽玄の理想を示しました。

「み吉野の山かき曇り雪降ればふもとの里はうちしぐれつつ」(俊恵)

いかがでしょう。正直なところ、私は俊恵に完全同意です。とりあえず「幽玄」という言葉は置くとしても、深い美的様相を感じる歌というものは、おおむね風景に心情が溶け合った象徴性の高いもの。そしてこれが達成されたのが「新古今」であり、新古今の美こそが「余情」あり「幽玄」であったはずです。
これに導いたのは確かに俊成であったかもしれませんが、無明抄のエピソードを見るかぎり、同時代の歌人としては俊恵の方がより「幽玄」への造詣が深かったことがわかります。「身にしみて」なんて露骨な心情表現をしていては、高次の美へはとうてい辿りつけないと俊恵は憤怒したのです。

もし俊恵が出家せず宮廷歌人として活躍していたら… 俊成の最大のライバルは清輔でなく俊恵であったでしょうし、もしかしたら御子左家の命運も危うかったかもしれませんね。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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