【百人一首の物語】七番「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(阿倍仲麻呂)

七番「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(阿倍仲麻呂)

百人一首のなかでもいや真砂のごとき和歌にあって、これほど愛唱される歌はないだろう、七番「天の原」である。

作者仲麻呂はあらためて説明するまでもないが、遣唐使の留学生として入唐し当時最難関とされた科挙の進士科に合格、末は正三品まで昇り皇帝の側近として活躍した。詩才にも長け、李白や王維といった当時一流の唐詩人との交流も記録に残っている。

ということで仲麻呂は、“やまとうた”というものをほとんど残していない。勅撰集に二首ばかり採られるが、一首は贋作でもう一首がこの「天の原」というぐあいだ。しかし仲麻呂は、この“一首”で和歌史に伝説を刻んだと言えよう。後世多くの秀歌集に採られ、数え切れぬ派生歌を生んだ。

なにがそこまで惹きつけるのか。それは「天の原」がたんなる望郷の歌ではなく、切なる帰郷は生涯叶うことがなかった、という尾ひれを纏っていることにある。仲麻呂は念願の帰国の途につくも船が難破、安南(ベトナム)に漂着し再び入唐、七十三歳の生涯をその地で閉じた。この悲哀の物語が多くの心を揺さぶったのだ。
唐とまではいかなくとも、当時枝葉の官僚にとって郷里を離れての地方勤務は当たり前、いつどこに戻れるか分からぬまま老いさらばえてゆく人々に、仲麻呂の歌は愛唱されたのだ。
ちなみに私も郷里を離れた人間のひとりであり、「天の原」に憧憬を寄せる一人である。ついでにいえばこの歌に共感できない人間とは友になれないと信じている。
(これに心よせた詩友李白は一片の詩※1を捧げている)

さてこの「天の原」であるが、五言絶句に直された詩※2が江蘇省鎮江に歌碑として残る。仲麻呂の歌が中国の人々の胸をも打ったのだという感慨とともに、ひとつのある感想を抱く。それは和歌という詩形の特異だ。

五言絶句といえば漢詩のなかでも最も短い形式であるが、それでも「想」や「圓」といった字句に情趣が露骨にみえる。くらべて三十一文字の和歌を見よ! 詠み人の感情などは一切排除され、ただ一夜の風景のみが歌われているのみ。しかしその風景歌に私たちは心を郷愁の念で濡らす。文字数の少なさは感動の少なさにはならない。むしろその少なさを補って、人はそれぞれの「天の原」を心に描く。それが可能であったからこそ、仲麻呂の和歌は古来愛唱されてきたのだ。

※1『哭晁卿衡』
「日本晁卿辞帝都 征帆一片繞蓬壷 明月不帰沈碧海 白雲愁色満蒼梧」(李白)
※2『望郷詩』
「翹首望東天 神馳奈良邊 三笠山頂上 想又皓月圓」(晁衡=阿倍仲麻呂)
 →興慶宮(Wikipedia)

(書き手:内田圓学)

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