時雨の雨染めかねてけり山城の常盤の杜の真木の下葉々(能因)

『時雨の雨もさすがに色を染めることが難しいようだ、山城の常緑樹の森の葉は』。松に杉、樫の木など通年葉が存在し色も変わらぬいわゆる常緑樹を「常盤(ときわ)」と呼ぶ。昨日鑑賞したように「時雨」は木の葉を染めるというのが本意であるが、その時雨を以てしても色が変わらない木々があるという着眼におかしみがある。しかし発想が単純すぎて言葉をむりくりに繋げた感が否めない。“時雨”と“雨”、“常盤”と“真木”さらに“杜”に“木の葉”、ほとんど同じ意味を成す言葉が並んでいる。なんとか工夫を得んと倒置を加えるが、なおさらドタバタしてしまって結果を得られなかった。

(日めくりめく一首)

雨降れば笠取山のもみぢ葉は行きかふ人の袖さへぞ照る(壬生忠岑)

笠取山は宇治の歌枕であるが、標高も低く周囲の山に隠れて目立たない。ではなぜ歌に詠まれるかと言えば、理由は名前にこそある。『雨が降ると笠取山の紅葉の葉は、往来する人の袖の色までも照りまさる』。歌の解釈の前に、前提をお伝えしよう。昨日ちらりと話した「時雨(秋の雨)」の規定に、時雨によって“紅葉が色づく”というのがある。だから今日の歌は、紅葉を染める時雨が降る笠取山は、その名のように往来する人々が笠を取るので、袖までも紅葉のように染まってしまう、という解釈になるのだ。古今集の歌にある快感は、パズルを解いたときのそれと全く同じだ。

(日めくりめく一首)

「令和元年 秋の和歌文化祭」開催レポート

去る11月10日、肥後細川庭園内の松聲閣にて恒例の「和歌文化祭」を開催しました。
今回はな、なんと、みなさまの要望を受けて午前午後の計8時間のぶっ通しです。

会場となった「松聲閣」は旧熊本藩細川家下屋敷で細川家の学問所として使用されていたとのこと。数年前にリニューアルされて、伝統の趣と使い勝手が両立された最高の施設です。
何より素晴らしいのは建物内から見渡せる庭園。四季折々に映える木々が池を巡り、さながら一枚の巨大な大和絵のよう。当日は秋晴れの爽やかな陽が射して、所々に赤みを帯びた木の葉の色も美しく、最高の環境で文化祭を行うことが出来ました。

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白露も時雨もいたくもる山は下葉残らず色づきにけり(紀貫之)

今日からはしばらく「時雨」にお付き合い頂こう。ところで同じ「雨」という気象現象を春は「春雨」といい秋には「時雨」という。この分別は「一季一景」の原則のみにあらず、詠むべき風景にも明々たる規定を設けて精緻なこだわりから生じている。思うに自然に対するこの執着心が日本文化の根幹なのだ。さて、詠み人は紀貫之、『守山はその名の通り白露も時雨もひどく漏るので、木々の下葉も残らず色づくのだなぁ』。採られた古今集らしく機知に富んでいるが、貫之が偉大なのは掛詞をフックにしつつも印象に残る情景を描き切る。それはひとえに「下葉」という繊細な着眼による。

(日めくりめく一首)

木枯らしに木の葉の落つる山里は涙さへこそ脆くなりぬれ(西行)

ゆく河の流れ、よどみに浮かぶ泡沫。無常を象徴する現象はいくらでもあろうが、その最たる事例が秋の木の葉ではなかろうか。『木枯らしで木の葉が次々と散ってゆく山里、私の涙も脆くなって止めどなく落ちてゆく』。詠み人は西行、春の頃にはまだ咲かぬ花を求めて山里を駆け巡った僧にあるまじき執着の人間に、むなしき落ち葉はどのように写ったのだろう。いや写りはしなかった、溢れる涙に潰されて彼の眼は光を失ったのだ。その回復は、もはや春の花をもってしか成しえない。

(日めくりめく一首)

いかばかり秋の名残を眺めまし今朝は木の葉に嵐ふかずは(源俊頼)

『秋の名残を深く惜しんで眺めただろうに。今朝、木の葉に嵐が吹かなければ』。昨日の宗于の呑気が罪であるほど、まるでオー・ヘンリー、今日の歌には儚さを感じる。いったいなぜ、木の葉一枚にこれほどの切迫感を込めるのか。たとえ秋は尽きようと、新しい冬をどうにか楽しめばいいではないか? それは出来ない相談だ、理由は「花」。歌人たちにとって命と変わらぬかけがえのない存在である花が、冬という季節にはないのだ。青息吐息のこの季節いかに彼らが乗り越えるか、これから鑑賞を続けよう。

(日めくりめく一首)

山里は冬ぞ寂しさまさりける人めも草もかれぬと思へば(源宗于)

昨日一昨日とご紹介した立冬の歌、確かに冬に対する嫌悪感はあったが和歌らしい風情、自然への観入も十分感じられた。しかし今日の一首である、『山里は冬になると寂しさが極まるよね、なぜって人の出入りも草も「かれる」ってんだから!』。言うまでもなく「かれ」は「離れ」と「枯れ」の掛詞になっていて、このダジャレを言わんがための歌である。おそらく作者はどや顔でこの歌を披露したに違いない。滑稽味の強い歌ではあるが、評価して定家は百人一首にも撰んでいる。確かに言葉遊びこそ、三代集の特徴であり和歌の本分であるが。

(日めくりめく一首)

秋のうちはあはれ知せし風の音のはげしさ添ふる冬はきにけり(藤原教長)

秋を知らせる風は「はっと気づく」というような繊細なものであったが、冬の風はまったくそうでない。『秋の頃は深い情趣を感じさせた風の音が激しくなって、冬が来たんだなぁ』。ビュービュー叩き付けるような激しい風はまるで嵐、嘘のような様変わりだ。ここまで口惜しさが滲み出ていると、冬という季節に同情さえ抱いてしまう。さて、詠み人は藤原教長。能書家としても知られ、柔らかく精妙なかな古筆を残している。

(日めくりめく一首)

昨日こそ秋は暮れしかいつのまに岩間の水の薄氷るらむ(藤原公実)

立春から毎日一首ずつご覧頂けているならば、今日が「立冬」となるはずだ。和歌の四季もいよいよ最後である。
さて、春は「うぐいす」、夏は「ほととぎす」そして秋は「風」で知った四季の変わり目、冬はなんであろうか? 正解は「氷」であった。『昨日秋が暮れたばっかりだってのに、いつの間にか岩間の水が氷ってるよ』、歌は千載和歌集から冬部の一番歌である。立秋の歌々には言葉じりから新しい季節への期待感が滲み出ていたものだが、今日の歌にはそのような感情は皆無。しかしこれが「冬」という季節に対する平安歌人の偽りない本意なのである。

(日めくりめく一首)

【和歌マニア(第94回)】再び怪人「ワカマーニ」! 大中臣能宣の歌の謎を解け!!


またまた現れた怪人「ワカマーニ」! 執拗にろっこ達に挑んでくるワカマーニ、お前の目的はいったいなんなんだ!? 今回も百人一首から大中臣能宣の「御垣守…」からの出題、あなたはこの謎が解けるか!?
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→秋の和歌文化祭 11/10(日)9:30~16:30