【百人一首の物語】六十番「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」(小式部内侍)

六十番「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」(小式部内侍)

いつの時代も、イヤミな男は嫌われますね。歌合せに招かれることになった小式部内侍、そこにある男が現れます。その名は藤原定頼、こいつはご丁寧にも「歌はいかがせさせ給ふ。丹後へ人は遣しけむや、使、未だまうで来ずや」などと言い寄ってきました。当時、小式部内侍の母である和泉式部は夫の任国である丹後に下っていました、そこへ歌の代作を頼むための使いをやったのか? という嫌味なのですが、和泉式部といえば名うての歌人で知られた人ですからね、定頼としてはからかいたくってしょうがなかったのでしょう。

しかしこれに臆さないのが、小式部内侍のカッコイイところ。「大江山を越えてすぐの生野へも行ったことがないのに、母のいる丹後の天の橋立なんてもちろん踏み入れたこともありませんが、なにか」と、見事に打ち返したのでした。負けん気の強さも抜群ですが、なによりこれを「歌で返した」というところに、小式部内侍の母にも勝る才気が感じられます。

小式部内侍は母とともに中宮彰子に出仕し、そのため「小式部」と女房名がつくのですが、母にも劣らぬ多情でこの定頼のほか藤原教通、範永といった多くの男性と浮名を流しました。頼もしき和泉式部二世! であったのですが、むなしくも母より先に若くして亡くなってしまいます、産褥死でした。それにしても彰子のライバルであった定子も産褥死だったといいますから、出産というのはまさに命がけだったことがわかります。

後拾遺和歌集には母、和泉式部の哀傷歌が残ります。
「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり」(和泉式部)

詞書には小式部内侍が亡くなってのち、彼女の残した孫たちを見て詠んだとあります。娘は自分の子供たちと私を残し逝ってしまったが、子供と私とどちらを哀れと思っているだろうか。それはきっと子供たちだ、私だって自分の娘が亡くなり、嘆き悲しみにくれている。

和歌の哀傷歌のほとんどが形式上詠まれたようなものばかりですが、和泉式部のこの歌はこころに沁みて、彼女の悲しみに触れられたような、そんな気持になります。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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