【百人一首の物語】二十八番「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」(源宗于朝臣)

二十八番「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」(源宗于朝臣)

「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候…」※1とは正岡子規による歴史的文句だが、なにも古今集における“下手な歌よみ”は貫之に限らない、源宗于もその誉れに十分値する。

この二十八番歌などはその象徴といえよう、冬の山里の侘しさが描かれるが狙いは「枯れ」と「離れ」の掛詞であり、ようするにダジャレを言わんがための歌である。古今集の詞書きには「冬の歌とてよめる」としか記されないが、このような興はさだめて歌合せで詠まれたものだと考える。

宗于は当世の名うての風流人であったろう。しかし存在感に欠けるのは古今集の入集数が乏しいためか、見事な古今ぶりにも関わらず、わずか六首しか採られていない。ただ「大和物語」には右京大夫の名で存在感を表わし、三十段の出世できない身の上を嘆き詠んだ歌※2などは有名だ。おかげで宗于は広く不遇の人と認知されてしまった。

ところで平安時代をとおし、自らの不遇の発信・改善を歌に頼るのは至極当然であった。あの源俊頼※3も源頼政4※も息子の不始末の尻拭いのために俊成※5も、ほの淡い期待を込めておのが上長へとせっせと歌を奉ったのだ。

歌とは決して文芸の枠に収まらない。宴席の余興であるし、女を口説く手段であるし、待遇改善の嘆願でもある。ようするに人と人とのコミュニケーションツールであるのだ。この最も肝心な視点を、子規をはじめ明治のいわゆる革新的歌人はまったく持ち合わせていなかった。まこと不幸なことだ。

※1「再び歌よみに与ふる書」(正岡子規)
※2「沖つ風ふけゐの浦に立つ浪のなごりにさへや我は沈まぬ」(源宗于)
※3「数ならぬ身をうぐひすと思へどもなくをは人のしのばざりけり」(源俊頼)
※4「のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐを拾ひて世をわたるかな 」(源頼政)
※5「あし鶴の雲ぢまよひし年くれて霞をさへやへだてはつべき」(藤原俊成)

(書き手:歌僧 内田圓学)

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