【百人一首の物語】十四番「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」(河原左大臣)

十四番「陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」(河原左大臣)

源融は嵯峨天皇の皇子、臣籍降下するも従一位の左大臣まで昇った。知られるのは彼の「河原院」だろう、六条に構えた豪奢な邸宅は庭に陸奥塩釜の風景を模した山や池を配し、わざわざ難波浦の海水を持ってきて塩焼きまでも行なったというから驚きだ。そんなわけで融は光源氏のモデルの最有力と目される。古典界隈では河原院を源氏絶頂期の建設「六条院」に見据えるのが当然だ。ただ臣籍降下し源氏を名乗った元皇族など数えきれないし、何より融は肝心の歌の方面に弱く勅撰集に採られたのも四首ばかり。それでも彼を光る君になぞらえるのは正しいのか?

私は間違っていないと思う。そのわずか四首ばかりの歌がまさに貴公子ぶりなのだ。例えば春の歌※1、こんなのをサラリとやられたら女でなくとも身を任せたくなるだろう。そしてその珠玉から定家が抜いたのが「陸奥の」の一首であった。恋による心の乱れを「しのぶもぢ摺り」に譬えた歌、十三番「筑波嶺」にも共通するが見果てぬ異国のファンタジックの香を漂わせる。心憎いのは結句「我ならなくに」、このような歯が浮いたような捨て台詞は貴公子のみの特権だ。

「陸奥の」の歌は野暮な男の憧れとなった。多くの本歌取りを生んだのはもちろん、伊勢物語の初段※2にも引かれているし、あの芭蕉もありがたく参上している※3。

この風流を極めた貴公子に悲劇があるとすれば、それは皇族に復帰して准太上天皇に就けなかったこと、というのは戯言で。風雅をしたためた草々の歌を勅撰集に残せなかったことだろう。

※1「けふ桜しづくに我が身いざ濡れむ香ごめにさそふ風の来ぬまに」(源融)
※2「春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れかぎり知られず」(昔男)
※3「早苗とる手元や昔しのぶ摺」(芭蕉)

(書き手:内田圓学)

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