【百人一首の物語】十三番「筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞつもりて淵となりぬる」(陽成院)

十三番「筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞつもりて淵となりぬる」(陽成院)

ようやく恋歌らしい恋歌が登場、陽成院の一首です。
「筑波山の峰から流れ落ちる男女川の水流がやがて深い淵にとなるように、あなたへの恋心も深く底知れないものとなりました」。

筑波山は茨城県の筑波山地の主峰、標高は877mと日本百名山の中では最も低い山ですが、なぜか古来より「西の富士、東の筑波」と並び称され関東を象徴する山でありました。歌にもたくさん詠まれて万葉集※1はもちろん、記紀に記された倭健命(日本武尊)の連歌※2は伝説となり、やがて連歌を「筑波の道」と言い表すまでになりました。

筑波山の魅力は双耳峰(二つの頂がある山)であることしょう。それぞれ男体山、女体山と呼ばれ、それにちなんでか古代には「歌垣」といって今の合コンみたいなことをやっていたそうです。
歌の「男女川」はその二峰から流れ出ることから名づけられた川ですが、たんに川の水が淵になるという序詞ではなく、あえて「男女川」を用いたところが陽成院の工夫でしょう。歌に艶とかつ情熱が生まれています。

採られた後撰集の詞書きには「釣殿の皇女につかはしける」とあり、この大言壮語のアプローチが功を奏したのか、陽成院は見事皇女のハートを射止めました。なかなかの風流人! と思いきや、じつのところ陽成院は、若干九歳にして践祚するも宮中における乱暴狼藉が原因で十六歳には廃位されてしまったという問題児。けっして風流な優男などではなく、歌のように勇壮実直な人であったようです。

しかしこのようなタイプは政治において大抵損をするのが世の常。当時の権力者は摂政基経でしたが、陽成院の退位に至る世論の形成は、陽成院とその母高子と不和であった基経の仕業であったとされます。それはまだしも次の天皇を自身の子(元良親王)に譲ることも叶わず、仁明の皇子である御年五十五歳であった光孝に奪われてしまうのでした。ここに文徳、清和、陽成と続いた皇統は絶え、光孝そして宇多、醍醐に連なる血脈に移ってしまったのです。なんという悲劇!

これより百人一首は新章「失意に乱れる純血の貴公子」に突入です!

※1「筑波嶺の岩もとどろに落つる水世にもたゆらにわが思はなくに」(作者不明)
※2「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」(倭健命)、「かがなべて夜には九夜日には十日を」(翁)

(書き手:内田圓学)

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