辞世の歌 その13「願はくば花の下にて春死なむその如月の望月のころ」(西行法師)
あまたの辞世の歌のなかでも、もっとも知られるのがこの一首だろう。もしも願いが叶うなら春の桜の下で死にたい、二月の満月のころに。二月(旧暦)の十五日は釈迦入滅の日であり、花と月は西行が生涯追い求めた数寄の象徴でもある。すな...
あまたの辞世の歌のなかでも、もっとも知られるのがこの一首だろう。もしも願いが叶うなら春の桜の下で死にたい、二月の満月のころに。二月(旧暦)の十五日は釈迦入滅の日であり、花と月は西行が生涯追い求めた数寄の象徴でもある。すな...
語り継ぎたい辞世として、今回は歌ではなく句をご紹介します。平安中期の僧侶、空也上人の辞世の句です。 空也上人は「市上人」とも呼ばれ、民衆に向けて仏教を説いてまわった、当時としては稀なお坊さんです。もしかしたらその伝承より...
この歌、紫式部の辞世歌として喧伝されていますが本当でしょうか? 採られた新古今の詞書を見ると「上東門院小少将(藤原彰子の女房)が亡くなって後、彼女と交わした文を見て詠んだ」とあり、歌の「書とめし跡」は紫式部自身のそれでは...
和泉式部といえば恋多き、奔放な女性として知られています。時の権力者藤原道長からは「浮かれ女」と評され、同僚である紫式部には「和泉はけしからぬ方こそあれ」などと記される始末。それはやはり橘道貞の妻だったにもかかわらず、冷泉...
「夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき」(藤原定子) 藤原定子の人生は浮き沈みの激しいものでした。彼女は中関白家道隆の娘として生まれ、14歳の春に一条天皇に入内します。安寧の時は続かず、定子の兄である伊周...
「あらたしき」「年の初め」「初春」と、これでもかと元日が打ち出さているが、古来、正月に降る雪は豊作の吉兆であったという。これが四句におよぶ序詞となり、そのように「佳いことが積もりますように」と結ぶ、まことにおめでたい歌で...
「手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ」(紀貫之) 『先づ「古今集」といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。(再び歌よみ...
「九重の花の都に住みはせてはかなやわれは三重にかくるる」(小野小町) 小野小町は先の在原業平と同じく六歌仙に数えられ、古今東西に広く知られる歌人のひとりです。しかしその出自は謎めいていて、それゆえに日本の各地にいわゆる「...
「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(在原業平) いわずと知れた在原業平、古典ファンのみなさまにあえて人物を語ることはしませんが、その歌風について貫之に伺うと『その心あまりてことばたらず。しぼめる...
「士(をのこ)やも空しくあるべき万代に語りつぐべき名は立てずして」(山上憶良) 山上憶良は日本の古代歌人においてほとんど唯一無二の存在です。かつて中唐の詩人白居易は詩を分けて「諷諭、閑適、感傷、雑律」の四つに分類し、士大...
「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」(柿本人麻呂) 柿本人麻呂はいわゆる「歌聖」と称えられる人物です。持統天皇の御代に宮廷歌人として活躍し、草壁皇子や川島皇子への挽歌をはじめ皇室の折々の儀礼に際しみ...
「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(大津皇子) 時は679年、天武天皇とその六皇子は吉野へ行幸し、次期天皇を「草壁皇子」にすることで結束しました、「吉野の盟約」です。天武天皇は「壬申の乱」という未曽...
「岩代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む」(有間皇子) 有間皇子は存在が確かな人物です。父は第三十六代天皇の孝徳天皇、叔母には皇極天皇がいて従兄弟にはなんと中大兄皇子(天智天皇)がいる。血統の由緒は抜群...
「倭は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる倭しうるはし」(倭建命) おそらくこの歌が、「辞世の歌」として一般的に知られる最も古いものでしょう。詠み人は倭建命(やまとたけるのみこと)、古事記に載る神話が出典となっています。...