辞世の歌 その2「岩代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む」(有間皇子)

「岩代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む」(有間皇子)

有間皇子は存在が確かな人物です。父は第三十六代天皇の孝徳天皇、叔母には皇極天皇がいて従兄弟にはなんと中大兄皇子(天智天皇)がいる。血統の由緒は抜群ですが、それゆえ彼の人生は悲劇的となものとなってしまいました。

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父は天皇という地位にこそあれ、実権は乙巳の変の立役者である中大兄にあるという歪な状況。やがて孝徳天皇が亡くなると、皇子である有間皇子は危険あるいは邪魔な人物と映ったんでしょうね、蘇我赤兄に謀反をそそのかされ、あげく裏切られ、まんまと罪人に仕立てられてしまいました(蘇我赤兄と中大兄は通じていたというのが通説です)。

有間皇子は捕えられ、天皇のもとへ連行されることになります。歌はその道中、岩代(和歌山県日高郡)で詠んだものでした。
「松が枝を引き結び」とは、いわば旅の安全祈願のおまじないです。今や道路も整備され交通機関も充実していますが、むかしの、それこそ古代の旅なんてのは命がけであったことでしょう。「松が枝を結ぶ」だけでなく、道々の道祖神に「幣を手向けたり ※1」、「道草を結んだり ※2」して旅の無事を祈りました。

万葉集には岩代で詠んだ歌がもう一首あります。

「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」(有間皇子)

この「飯」は、ともすると自分の食事のように思ってしまいますが、そうではなく土地の神様へのお供え物であり、ここでも旅の安全祈願が歌われていることがわかります。

しかしです、有馬皇子はきっとわかっていたはずです、この旅はけっして帰れない旅であると。それでも熱心に安全を祈願し、再び帰ってくることに期待をかける。この歌の悲哀は、わたしたちがことの顛末を知っているがゆえに、よけいに搔き立てられます。有馬皇子は無情にも絞首刑に処せられてしまいました。享年は十九、まだ政治など知らない若者は、これに汲々とする大人たちに殺されてしまったのです。

有間皇子の物語はよほど憐情を誘ったのでしょう、万葉集には山上憶良らによる追和の歌※3が載ります。

※1「このたびは幣も取りあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」(菅原道真)
※2「夏草は茂りにけりなたまぼこの道行き人も結ぶばかりに」(藤原元真)
※3「天翔りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ」(山上憶良)

(書き手:歌僧 内田圓学)

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