辞世の歌 その8「手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ」(紀貫之)

「手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ」(紀貫之)

『先づ「古今集」といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。(再び歌よみに与ふる書)』

伝統的な「和歌」批判の急先鋒であった正岡子規は、初代勅撰集「古今和歌集」の一番歌その一首をもって「和歌」の歴史的、文学的価値すべてを批判しそれは見事に成功しました。冷静に見ればそれは極めて暴論なのですが、それが納得感をもって受け入れられたのも致し方ないというのが、確かに古今集の一番歌なのです。

一番「年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ」(在原元方)

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いわゆる「年内立春」の歌で、時間による配列を理念とした撰者からしたら間違いなく第一番に採るべき歌だったのでしょうが、これに近現代的な文学性は皆無です。しかし、もし古今集の二番歌がその第一番に据えられていたら、正岡子規によるダメージも軽傷、いや攻撃さえ諦めたかもしれません。

二番「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」(紀貫之)

夏、手に結んだ水が、秋そして冬を経て凍りつき、それが今、春風によって解かれようとしている。立春の風は春の、四季のはじまりを告げ、なにより勅撰集の幕を開ける。和歌世界を一首で象徴するような貫之の二番歌は、明治の革新を標榜する歌人をもってしても容易に打ち崩せない文学性を有しています。

貫之の辞世とされる歌にも、「結びし水」が描かれています。手ですくった水に映るのは天空の月影… これを序として、人生の儚さを譬えた一首。実と虚の境界を研いだような美の辞世を、貫之は死の淵で詠んだと言います。これを「下手な歌よみ」などやすやすと一蹴してしまうのはとても罪深いことです。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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