辞世の歌 その11「誰か世にながらへて見る書きとめし跡は消えせぬ形見なれども」(紫式部)

この歌、紫式部の辞世歌として喧伝されていますが本当でしょうか? 採られた新古今の詞書を見ると「上東門院小少将(藤原彰子の女房)が亡くなって後、彼女と交わした文を見て詠んだ」とあり、歌の「書とめし跡」は紫式部のそれ限らないことがわかります。
ただ辞世の歌というのはこういうものです。つまり所以に疑いはあっても、その人らしい歌であることの方が時として重要であるのです。

「誰か世にながらへて見る書きとめし跡は消えせぬ形見なれども」(紫式部)

誰もが「書きとめし跡」に「源氏物語 全五十四帖」を想像することでしょう。その書跡は私の形見ではあるが、これを伝えて見る人なんているんでしょうか。と、このように慎ましい紫式部に対し、いやいや千年後の今にもあなたの作品は詠み継がれていますよ! と、だれもが称賛を贈りたいわけです。

ただここで注意しなければならないのは、「源氏物語」を優れた古典文学としてある意味で無条件に礼賛するのは、とても現代的な感覚であるということです。実のところ源氏物語はいわゆる「色好みの文学」として、曰く付きで千年を渡り歩いてきました。それを端的に示すのが「源氏供養」です。源氏供養とは中世において、好色のあらんかぎりを狂言綺語をもって記された源氏物語と、その作者である紫式部を供養するというもの、すなわち源氏物語は人々を惑わす恐ろしい書であり、作者はその罪として死後に地獄へ落ちたと考えられていたのです。「源氏供養」は能の題材にもなっていますから、当時の人たちの源氏物語に対する理解はおおむねこんな感じだったことがわかります。

これは「源氏物語」が青少年を惑わす不健全図書であるという以上に、仏教の戒律である「不妄語戒(嘘をついてはいけない)」を破ったということが問題視されたのでした。つまり「物語」という架空性が、嘘をついてる、だから罪だ! となったのです。いかにも中世らしい発想といえますね。

しかしこのように中世の人間が罪深い書にうろたえる一方で、当の作者である紫式部は「物語」に対する見解を整然と述べています、光源氏の言葉を借りて。

『神代より世にあることを、 記しおきけるななり。日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ』(第二十五帖 蛍)

正史である日本書紀などは物事の一面にしかすぎない、架空の物語こそ道理にかなった詳しいことが書いてあるのだ、と。「源氏供養」なんてやりだした人たちは、けっしてこの記述を見てやいないでしょう(そもそも源氏物語を読んでない可能性だってあります)。
さすが紫式部は大局的見地のある一流の作歌であり、いろんな困難がありつつも千年を乗り越えてきた源氏物語はやはり歴史的な大著であります。

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(書き手:歌僧 内田圓学)

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