辞世の歌 その5「士やも空しくあるべき万代に語りつぐべき名は立てずして」(山上憶良)

「士(をのこ)やも空しくあるべき万代に語りつぐべき名は立てずして」(山上憶良)

山上憶良は日本の古代歌人においてほとんど唯一無二の存在です。かつて中唐の詩人白居易は詩を分けて「諷諭、閑適、感傷、雑律」の四つに分類し、士大夫たる者はそのうち諷諭(政治批判)と閑適(思想信条)に命を賭すべきだと説きましたが、本朝歌人らは「感傷」に心を寄せこれを量産し、和歌(やまとうた)を貴族の慰みもの以上のものとはしませんでした。この点、憶良は貧しい農民や幼い子供に目を向けた、いわゆる社会的な題材を多く歌に詠み、本朝唯一とも言えるような士大夫の歌人でありました。

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憶良の出自ははっきりとしませんが、一説では百済の生まれだと伝わります。下級官人として朝廷に尽くしますが、士大夫への道が開けたのは大宝元年(701年)42歳になったころ。遣唐使の任を得、帰国して後には従五位下まで出世しました。また筑前守として下向した際、大宰帥として赴任してきた大伴旅人らとともに筑紫歌壇を築いたのは有名な話です。

辞世は死の床において、見舞いに来た親友の藤原八束に与えたものでした。

「万代の後まで語り継がれる名声も立てずに、男子たるものは空しく朽ち果てるわけにはいかない!」

わたしから見れば、無名の官人から貴族の末席に至り、大伴旅人なんていう大貴族と対等に歌の交流ができるまでに出世したんですから、まさに士(をのこ) の本願を果たしたように思うのですが、 憶良としては「まだまだ」だったようです。

きわめて単純明快がゆえに、人間の愚直なまでの志が伝わってくる辞世歌。憶良ような歌人が本朝にあと数人いれば、和歌という文芸は違う進歩をしたかもしれません。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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