辞世の歌 その17「出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」(源実朝)
源実朝は鎌倉幕府三代将軍。父は源頼朝、兄で二代将軍の頼家が幽閉されたあとを受け三代将軍となりました。北条氏に阻まれて政治の実権はもてませんでしたが、京都の文化とりわけ和歌に興味をもち、家集「金槐和歌集」を編んだほど。享年...
源実朝は鎌倉幕府三代将軍。父は源頼朝、兄で二代将軍の頼家が幽閉されたあとを受け三代将軍となりました。北条氏に阻まれて政治の実権はもてませんでしたが、京都の文化とりわけ和歌に興味をもち、家集「金槐和歌集」を編んだほど。享年...
前回は源頼政の辞世の歌をご紹介しましたが平家方にも歌が得意な武人がいました、平忠度(ただのり)です。忠度は平清盛の異母弟で、なんと時の大歌人藤原俊成に師事したというのですから、歌に対する熱意のほどが知れます。 しかしそん...
和歌ファンであればその名を知らぬ人は少ないでしょう、源頼政です。彼は勅撰集に59首も採られた名うての歌人であり、もし百人一首に採られていたら抜群の人気を獲得したであろう、文武を備えた魅力的な人物でした。 頼政は保元として...
一遍上人は鎌倉初期の僧侶ですが、いわゆる「鎌倉新仏教」六宗の宗祖、たとえば日蓮や親鸞らと比べるとあまり知られていないかもしれません。それは一遍が死を前に自身の遺作をすべて焼き捨てたこと、また彼を宗祖とする時宗が比較的小さ...
あまたの辞世の歌のなかでも、もっとも知られるのがこの一首だろう。もしも願いが叶うなら春の桜の下で死にたい、二月の満月のころに。二月(旧暦)の十五日は釈迦入滅の日であり、花と月は西行が生涯追い求めた数寄の象徴でもある。すな...
語り継ぎたい辞世として、今回は歌ではなく句をご紹介します。平安中期の僧侶、空也上人の辞世の句です。 空也上人は「市上人」とも呼ばれ、民衆に向けて仏教を説いてまわった、当時としては稀なお坊さんです。もしかしたらその伝承より...
この歌、紫式部の辞世歌として喧伝されていますが本当でしょうか? 採られた新古今の詞書を見ると「上東門院小少将(藤原彰子の女房)が亡くなって後、彼女と交わした文を見て詠んだ」とあり、歌の「書とめし跡」は紫式部のそれ限らない...
和泉式部といえば恋多き、奔放な女性として知られています。時の権力者藤原道長からは「浮かれ女」と評され、同僚である紫式部には「和泉はけしからぬ方こそあれ」などと記される始末。それはやはり橘道貞の妻だったにもかかわらず、冷泉...
藤原定子の人生は浮き沈みの激しいものでした。中関白家道隆の娘として生まれ、14歳の春に一条天皇に入内しました。しかし、定子の兄である伊周が花山法皇を脅迫して射撃する事件を起こしたため、思い悩んだ末に出家。しかし、定子への...
「あらたしき」「年の初め」「初春」と、これでもかと元日が打ち出さているが、古来、正月に降る雪は豊作の吉兆であったという。これが四句におよぶ序詞となり、そのように「佳いことが積もりますように」と結ぶ、まことにおめでたい歌で...
「手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけれ」(紀貫之) 『先づ「古今集」といふ書を取りて第一枚を開くと直ちに「去年とやいはん今年とやいはん」といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。(再び歌よみ...
「九重の花の都に住みはせてはかなやわれは三重にかくるる」(小野小町) 小野小町は先の在原業平と同じく六歌仙に数えられ、古今東西に広く知られる歌人のひとりです。しかしその出自は謎めいていて、それゆえに日本の各地にいわゆる「...
「つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(在原業平) いわずと知れた在原業平、古典ファンのみなさまにあえて人物を語ることはしませんが、その歌風について貫之に伺うと『その心あまりてことばたらず。しぼめる...
「士(をのこ)やも空しくあるべき万代に語りつぐべき名は立てずして」(山上憶良) 山上憶良は日本の古代歌人においてほとんど唯一無二の存在です。かつて中唐の詩人白居易は詩を分けて「諷諭、閑適、感傷、雑律」の四つに分類し、士大...