辞世の歌 その26「極楽も地獄も先はありあけの月ぞこころに懸かる雲なし」(上杉謙信)

上杉謙信ほど謎めいた武将はいないでしょう。謙信は越後守護代であった父、長尾為景の末子として誕生、病弱であった兄に譲られるかたちで家督を継ぎました。「越後の虎」と呼ばれた謙信の人生は、まさに戦の人生でした。武田信玄とののべ...

辞世の歌 その25「吹きと吹く風な恨みそ花の春もみぢの残る秋あればこそ」(北条氏政)

北条氏政は小田原の北条氏四代目、武田信玄や上杉謙信と同盟を結び北関東に勢力を拡大するも、豊臣秀吉に小田原城を攻囲され降伏、弟の氏照とともに自害し果てました。これにより北条氏は滅亡し、その領国はことごとく改易されてしまった...

辞世の歌 その24「夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲居にあげよ山ほととぎす」(柴田勝家)、「さらぬだにうち寝るほども夏の夜の別れをさそふほととぎすかな」(お市の方)

柴田勝家は安土桃山時代の武将。はじめ織田信長の弟である信行に仕え、後に信長の家臣として宿老の一人となりました。彼は猛将として誉れ高く、近江長光寺城を六角承禎に水攻められた際には、水瓶を割り決死の覚悟で出撃し敵を破ったこと...

辞世の歌 その23「浮き世をば今こそ渡れもののふの名を高松の苔に残して」(清水宗治)

清水宗治は戦国時代後期の武将で備中高松城の城主。豊臣秀吉の中国征伐に対抗し、水攻めに苦しめられる。やがて本能寺の変が起こり、急いで事態を収拾したいと考えた秀吉は宗治の自害を条件に講和を進め、これを受け入れた宗治は自刃して...

辞世の歌 その22「かねて身のかかるべしとも思はずば今の命の惜しくもあるらむ」(朝倉義景)

朝倉義景は越前の戦国大名。義景の名は将軍足利義輝の諱を一字もらい受けたもので、彼の将軍家への忠義のほどがうかがえます。浅井長政と結んで織田信長に対抗するも姉川の戦いで大敗、一乗谷を攻め落とされ自刃しました。 ところで越前...

辞世の歌 その21「捨ててだにこの世のほかはなきものをいづくか終の棲家なりけむ」(斎藤道三)

「捨ててだにこの世のほかはなきものをいづくか終の棲家なりけむ」(斎藤道三) 斎藤道三は戦国時代の中期の武将、俗名は利政ですが仏門に入り道三と名乗りました。油売りから身を興し、一代で美濃国主になったといいます。嫡子である義...

辞世の歌 その20「筑摩江や芦間に灯すかがり火とともに消えゆく我が身なりけり」(石田三成)

石田三成は戦国時代末期の武将、豊臣秀吉に仕えて五奉行の一角をなし、九州征伐や文禄・慶長の役などに出陣したほか太閤検地など行政面で実績をあげました。秀吉の死後は徳川家康と対立、関ヶ原の戦で敗れ最後は京都の六条河原で斬首され...

辞世の歌 その19「打つものも打たるるものも土器よ砕けて後はもとの土くれ」(三浦義同)

無常の様相 その1「受け入れる」「打つものも打たるるものも土器よ砕けて後はもとの土くれ」(三浦義同) 三浦義同(道寸)は戦国時代はじめごろの武将で、相模国東部を修めた三浦一族の当主でした。しかし北条早雲らの侵攻をうけ、あ...

中世以降の辞世の歌(序)~末法思想と無常感~

鎌倉時代以降になると辞世歌にはある主題が強く詠まれるようになってきます、それは「無常感」です。この「無常」とは本来仏教の三法印のひとつ「諸行無常」に由来し、その意味は端的に「因縁生起」であり、釈迦ならずとも把握される世の...

辞世の歌 その18「今日ありと思うて日々に油断すな明日をも知れぬ露の命を」(慈円)

出展がはっきりしないので講評が憚られるのですが、今回はユニークな辞世の歌をご紹介しましょう。前大僧正慈円の辞世歌です。 「今日ありと思うて日々に油断すな明日をも知れぬ露の命を」(慈円) これをパッと見ての感想ですが、どう...

辞世の歌 その17「出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」(源実朝)

源実朝は鎌倉幕府三代将軍。父は源頼朝、兄で二代将軍の頼家が幽閉されたあとを受け三代将軍となりました。北条氏に阻まれて政治の実権はもてませんでしたが、京都の文化とりわけ和歌に興味をもち、家集「金槐和歌集」を編んだほど。享年...

辞世の歌 その16「行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし」(平忠度)

前回は源頼政の辞世の歌をご紹介しましたが平家方にも歌が得意な武人がいました、平忠度(ただのり)です。忠度は平清盛の異母弟で、なんと時の大歌人藤原俊成に師事したというのですから、歌に対する熱意のほどが知れます。 しかしそん...

辞世の歌 その15「埋れ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ哀れなりける」(源頼政)

和歌ファンであればその名を知らぬ人は少ないでしょう、源頼政です。彼は勅撰集に59首も採られた名うての歌人であり、もし百人一首に採られていたら抜群の人気を獲得したであろう、文武を備えた魅力的な人物でした。 頼政は保元として...

辞世の歌 その14「世にふればやがて消えゆく淡雪の身に知られたる春の空かな」(一遍上人)

一遍上人は鎌倉初期の僧侶ですが、いわゆる「鎌倉新仏教」六宗の宗祖、たとえば日蓮や親鸞らと比べるとあまり知られていないかもしれません。それは一遍が死を前に自身の遺作をすべて焼き捨てたこと、また彼を宗祖とする時宗が比較的小さ...

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