辞世の歌 その17「出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」(源実朝)

源実朝は鎌倉幕府三代将軍。父は源頼朝、兄で二代将軍の頼家が幽閉されたあとを受け三代将軍となりました。北条氏に阻まれて政治の実権はもてませんでしたが、京都の文化とりわけ和歌に興味をもち、家集「金槐和歌集」を編んだほど。享年は27歳、甥の公暁による暗殺でした。

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武芸や政治では恵まれなかった実朝ですが、その才能は歌で爆発します。藤原定家に師事し伝統的な「古今ぶり」を体得、さらに東の空気を吸って吐き出される歌は自然と勇壮ないわゆる「万葉ぶり」へ繋がり、唯一無二の「実朝ぶり」へと開花しました。彼の「金槐和歌集」は実朝が若干22歳で編んものですが、これはその筋の家に生まれた師である定家の同じ頃と比べれても優れており、彼は歌人として生得の人であったことがわかります。

その彼にして、辞世の歌がこれであったという。

庭の梅を覧て禁忌の和歌を詠じたまふ
「出でて去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」(源実朝)

一見して世に名高い道真の歌を、ほぼなぞらえていることがわかります。
「こちふかば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな」(菅原道真)

わたしはこの辞世とされる歌に二つの異なる印象を受けます。
ひとつは実朝という名手の最後と歌としては、まったくつまらない歌だといことです。先に見た源頼政や平忠度に見えた「人間」がまったく見えない、量産されたモノのように冷ややかな歌です。

実朝の辞世とされる歌はその場面とともに「吾妻鏡」に記されています。
将軍実朝は念願の鎌倉鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の儀式を目前とします、しかしそのとき彼は暗殺を強く予感した上で、出立に際してこの辞世歌を詠んだ、というのです。そしてこれは現実となり、実朝は暗殺される… こんな話、虚構でしかないと私は思いました。
もとより「吾妻鏡」は幕府執権の北条氏の権力を歴史的に正当化する意図があり、史実を客観的に叙述したものではないことは周知のことで、かねてこの辞世歌は実朝の真作であるか否かは問題にされてきました。

ただ「吾妻鏡」にはこのような記載もあるのです。
儀式出立の前に大江広元は「落涙禁じ難」くなった、つまり実朝の暗殺を事前に知っていたことを匂わせる記述です。また義時も前年の七月に、夢に薬師十二神將の戌神」が現れて、鶴岡への明年拝賀の日において将軍に「供奉せしめ給うこと莫れ」と告げたという。しかも儀式当日には太刀持ち役を交代した源仲章が公暁により殺害されている。ようするに実朝の暗殺は広元や義時たちには事前に了知され得ていた、そしてひいては当の本人、実朝も…

このように考えると、実朝の辞世歌は別の感情を帯びてきます。すなわちあの拙い詠みぶりは、自身の死を理解した人間がぎりぎりのところ詠みあげた結果であったのだと。本当の辞世の歌などというのは、自身の心情を風雅に任せることなど到底できないのです。実朝の場合は、かろうじて自分の身を重ねられ風景と故人(ここでは庭の梅と菅原道真)の歌を引きてくるのが精一杯であった…

時として、いやほとんどの辞世と伝わる歌は虚構であるでしょう。しかしその虚構が増せば増すほど、その歌は現実味を感じさせてくる…
辞世というジャンルの歌を鑑賞する難しさを、実朝の歌は教えてくれます。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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