中世以降の辞世の歌(序)~末法思想と無常感~

鎌倉時代以降になると辞世歌にはある主題が強く詠まれるようになってきます、それは「無常感」です。
この「無常」とは本来仏教の三法印のひとつ「諸行無常」に由来し、その意味は端的に「因縁生起」であり、釈迦ならずとも把握される世の理(ことわり)です。しかし鎌倉時代以降のほとんどの日本人にとって、無常とはすなわちペシミズムでありました。

「ゆく河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。流れのよどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」

誰もが知る方丈記の序文ですが、この随筆に記されているのは圧倒的な絶望です。その念はひとり長明のみにあったわけではなく、この時代を生きた人間(インテリ層ではあるが)は等しく感じていた、なんとなれば、世は「末法」であったからです。末法とは仏教の歴史観で「行」、「証(悟り)」が絶え、教えのみが残る… すなわちこの世はだんだん廃れていくのだ、という厭世の思想です。

末法自体は釈迦入滅後のある期日(日本では1052年)にはじまっており、藤原頼通は宇治の地に阿弥陀堂(平等院鳳凰堂)を建立し浄土を願うような動きは起こっていました。しかしこれがありありと体言されてきたのが平安時代の末期、つまり保元平治、治承寿永などの戦乱、地震そして養和の大飢饉など未曾有の天災によって、まさに世に現れてきたのです。(方丈記にはこの破滅的な世界が克明に記されています)

以降、日本人の末法史観は決定的となり、「厭離穢土・欣求浄土」を希求するようになる… 辞世歌とは「人生観・死生観」の総括ですから、末法を下敷きにした「無常感」が主題になるのは、ある意味必然であったといえるでしょう。

ただその「無常感」は一様ではなく、さまざまな様相をなして辞世歌に現れました。それはこの時代を生きた人間の、いわゆる個性のような輝きとなって。

ここからは鎌倉時代以降に詠まれた、無常感たっぷりの辞世歌の、その様相のタイプ別にご紹介したいと思います。

※ところで現代も、ある意味で「末法」といえなくもありません。経済の30年来の停滞いや没落そして少子高齢化あげく人口減少に陥り(最近では通貨安も)、衰退を加速してゆく日本… 明治この方、戦後以降に加速した「拝金主義」あるいは「進歩主義」を信奉する現代人にとって、この世はまさに「末法」でありましょう。とすれば、中世日本人が詠んだ辞世歌は、わたしたちに真に迫って訴えてくることだと思います。

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(書き手:歌僧 内田圓学)

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