辞世の歌 その16「行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし」(平忠度)

前回は源頼政の辞世の歌をご紹介しましたが平家方にも歌が得意な武人がいました、平忠度(ただのり)です。忠度は平清盛の異母弟で、なんと時の大歌人藤原俊成に師事したというのですから、歌に対する熱意のほどが知れます。

しかしそんな風雅は束の間、あれよと平家は都を追われることになります。そして場所は一ノ谷、鵯越の逆落としの急襲で有名なこの合戦で、平氏は通盛、知章、敦盛といった一門の有力な武人を失いましたが、忠度もまたその一人であったのです。

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平家物語にはこんなシーンが記されています。敗走する忠度、それを岡部六弥太忠純が見つけて「敵に後ろを見せるのか、戻ってこい! 私は見方だ!」と叫んだところ、忠度はまんまと騙されて振り返り、なんとその口には立派な「鉄漿黒(お歯黒)」が、 これで平家の公達だということがバレてしまい、捕まり首を刎ねられたのでした。

「行き暮れて木のした影を宿とせば花や今宵のあるじならまし」(平忠度)

この辞世歌は忠度の箙に結び付けられていました。武士としては情けない討ち死にでしたが、「せめて花の下で死にたい」と最後まで風流を忘れない忠度でありました。
それにしても正々堂々の勝負に敗れるのでもなく、ましてお歯黒で平家のお偉いさんだとばれて殺されるなんて、相当情けない結末。これがフィクションであるとしたら、平家物語の作者は相当意地悪ですね。

その実、忠度とは武人ではなく歌人であったのでしょう、平家物語にはこんなエピソードも。いよいよ平家が都落ちという時、忠度は歌の師である藤原俊成に一目会い、もしこの世が平和になって勅撰集が編まれることになったら、なんとか自分の歌を入れてほしいと懇願し自身の秀歌集を託しました。そして平家滅亡(壇ノ浦の戦い)から三年後、俊成によって「千載和歌集」が編纂されます。

「さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」(平忠度)

俊成はここに「故郷の花」として一首の歌を採りました。それは「よみ人しらず」の扱いでしたが、確かに忠度の歌が勅撰集に採られたのです。都は荒れても昔と変わらぬ山桜。和歌ファンとしては、涙なしには語れぬエピソードですね。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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