辞世の歌 その18「今日ありと思うて日々に油断すな明日をも知れぬ露の命を」(慈円)

出展がはっきりしないので講評が憚られるのですが、今回はユニークな辞世の歌をご紹介しましょう。前大僧正慈円の辞世歌です。

「今日ありと思うて日々に油断すな明日をも知れぬ露の命を」(慈円)

これをパッと見ての感想ですが、どうにも無粋ではないでしょうか。これまでの見てきた辞世の歌にはひとつの特徴がありました、それは花鳥風月に心を仮託する、すなわち和歌の歌です。しかしこの歌はどうにも訓誡めいてまったく風雅なところがない(「露の命を」にかろうじて和歌らしさが見える)。これはある意味で新奇なのですが、それを上回って野暮な歌です。

しかしこれが本当に慈円の辞世歌であるとすれば、むしろこの歌でいいのでしょう。なぜなら慈円という生真面目で、著作「愚管抄」のテーマとした物事の「道理」を重んじた人間にふさわしい歌だと思うからです。

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慈円といえば関白藤原忠通の子で、天台座主となること4度。すなわちエリート中のエリートであるのですが、しかしこんな立派な肩書も純粋な歌道に入れば関係ありません。慈円はよく歌を詠み、すぐれた詠み人でありました、しかしどうしても影が薄い… それは同時代に西行という正得の歌詠みの存在がまぶしすぎたからだと思います。

西行は世俗を捨てて仏と歌の道を追求し、風雅なる人生を送りました。西行の辞世の歌などはそれが端的に示されています。一方の慈円、世俗の超エリート、でありましたが、ある意味それに縛られ、まみれ、堅物として生きました。その表れがこの辞世歌だとすれば、納得感もあると思いませんか。

じつのところ慈円は西行になりたかったのです。慈円と西行には歌を通じた交流がありました。そこでこのような心境を吐露しています。

世をいとふ心ふかきよしなどかたりし事をおもひいでて、円位上人がもとへ遣しける
「世をいとふしるしもなくて過ぎこしを君やあはれと三輪の山もと」(慈円)

慈円はかつて遁世の意思をかつて西行に語り、しかしその決意を未だ成し遂げないことへの理解を求めた… このような内容の歌です。ほかにも慈円は千日入堂の後、兄である兼実に切実な遁世の意思を告げたこともあります。

しかしいくら憧れたとても、慈円はけっして西行にはなれなかったことでしょう。それは家柄や身分という世俗の縛りもありますが、なによりこの「毎日に油断するな!」というこのありがたい説教と、一方で下句に残る「露の命を」という和歌の詞を未練がましく残す半端な心では、西行のような一流の風雅はとうていなしえないからです。

しかしです、私はの生真面目さこそ慈円の最大の魅力だと思います。思い返してください、たとえば百人一首での坊主歌で一家言垂れているのは唯一慈円の歌くらいではありませんか。

「おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖」(慈円)

このような大僧正がいたからこそ、平安末期~鎌倉という「血と風雅」が混在する混沌を乗り越えることができたのです。

ちなみにかの親鸞は九歳の時に慈円のもとで得度しましたが、その折にこのような歌を詠んでいます。慈円の辞世歌に通じるものを感じます。

「明日ありと思う心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」(親鸞)

(書き手:歌僧 内田圓学)

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