木枯らしに木の葉の落つる山里は涙さへこそ脆くなりぬれ(西行)

ゆく河の流れ、よどみに浮かぶ泡沫。無常を象徴する現象はいくらでもあろうが、その最たる事例が秋の木の葉ではなかろうか。『木枯らしで木の葉が次々と散ってゆく山里、私の涙も脆くなって止めどなく落ちてゆく』。詠み人は西行、春の頃...

いかばかり秋の名残を眺めまし今朝は木の葉に嵐ふかずは(源俊頼)

『秋の名残を深く惜しんで眺めただろうに。今朝、木の葉に嵐が吹かなければ』。昨日の宗于の呑気が罪であるほど、まるでオー・ヘンリー、今日の歌には儚さを感じる。いったいなぜ、木の葉一枚にこれほどの切迫感を込めるのか。たとえ秋は...

山里は冬ぞ寂しさまさりける人めも草もかれぬと思へば(源宗于)

昨日、一昨日とご紹介した立冬の歌、確かに冬に対する嫌悪感はあったが和歌らしい風情、自然への観入も十分感じられた。しかし今日の一首である、『山里は冬になると寂しさが極まるよね、なぜって人の出入りも草も「かれる」ってんだから...

秋のうちはあはれ知らせし風の音のはげしさ添ふる冬はきにけり(藤原教長)

秋を知らせる風は「はっと気づく」というような繊細なものであったが、冬の風はまったくそうでない。『秋の頃は深い情趣を感じさせた風の音が激しくなって、冬が来たんだなぁ』。ビュービュー叩き付けるような激しい風はまるで嵐、嘘のよ...

風の音に秋の夜ふかく寝覚して見果てぬ夢の名残をぞ思ふ(平忠度)

いわゆる「雑」の類であるが暮秋の心を深く感じる歌をご紹介しよう、「忠度集」から平忠度の一首である。『秋も暮れようとする夜、冷え冷えとする風の音に目が覚めて、未だ果たせぬ夢を思い病む』。詞書きには「閨冷夢驚」(閨の冷たさに...

目もかれず見つつ暮さむ白菊の花よりのちの花しなければ(伊勢大輔)

『飽きることなく見続けていよう、白菊の花より後に花はないのだから』。早春の「梅」に始まる和歌の花は、晩秋の「菊」で締めくくりとなる。和歌に詠まれる花において、白菊は唯一色褪せた様さえも愛でられる。それは変容する紫が美しい...

ももしきや我が九重の秋の菊こころのままに折て挿頭さむ(後醍醐院)

菊は四君子のひとつに数えられ、中国のみならず本朝でも格別に愛好された。重陽の節句では花を飾り、また花びらを浮かべた酒を飲んで邪気払いと長寿を祈願する。今日の歌もそんな風習を下地に詠まれたものだろう。ただ「挿頭す」という一...

ひさかたの雲の上にて見る菊は天つ星とぞあやまたれける(藤原敏行)

『雲の上に見る菊は、おっと夜空の星と間違えちゃった』、小学三年生でも詠めそうな歌である。詠み人は藤原敏行、前評判通り工夫がない。ただ経緯を知れば、同情の余地がないこともない。詞書にはこうある、「殿上許されざりける時に召し...

霜をまつ籬の菊の宵のまに置きまよふ色は山の端の月(後鳥羽院宮内卿)

「籬(まがき)の菊」は日本美術におけるひとつの定型であり、絵画や着物の柄の図案として好んで描かれた。また「菊に置く霜」も躬恒に倣った趣向で和歌における菊の王道的詠み方といえよう。しかし出来上がった歌からは全く新しい体験が...

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花(凡河内躬恒)

百人一首には撰者の審美眼を疑う歌も散見されるが、今日の一首は間違いなく凡河内躬恒の渾身の作品だ。『当て推量で手折ってみようか、初霜が置いて見分けがつかなくなった白菊の花よ』、霜がびっしりと付いていっそう際立つ白菊の美しさ...