ちはやふる神世も聞かず竜田川唐紅に水くくるとは(在原業平)
今日の歌ほど賛否が分かれる歌はあるまい、在原業平の「ちはやふる」だ。定家選集の百人一首に採られ江戸時代には落語の演目に、現代では少女漫画のタイトルを飾り愛好される一方、凡作集の評価甚だしい例の百人一首ではその代表を務める...
今日の歌ほど賛否が分かれる歌はあるまい、在原業平の「ちはやふる」だ。定家選集の百人一首に採られ江戸時代には落語の演目に、現代では少女漫画のタイトルを飾り愛好される一方、凡作集の評価甚だしい例の百人一首ではその代表を務める...
今日の詠み人は源道済、知名度は低いが花山院のもと拾遺集撰集に関係したと噂がある。『見渡すと山里はすっかり紅葉に染まっている。飽きるまで見ようと野宿するつもりで一人やって来たのだ』、今日の歌にも見えるが道済の歌には「山里」...
今に残る宮中祭祀で最も大切なものをご存じだろうか、新嘗祭である。記紀神話にも記録が残り、収穫の感謝と五穀豊穣は、国を平らげる天皇として極めて重要な祭祀なのだ。ということもあり、歴々の天皇は「稲」や「田」といった高貴な身分...
詠み人は藤原定家、彼らしくない素直な詠みぶりだが、やはり採られたのは京極派による玉葉集だ。『夕日が落ちる向かいの丘の薄色の紅葉、はやくも寂しい秋の色だなぁ』、冬季に「秋」の字が見えるのはご愛敬。定家の秋の夕暮れというと件...
今日あたり「小雪」だろうか、北の方から初雪の便りもチラホラあるはずだ。実は今日から本格的に「紅葉」のご紹介となる。紅葉は「秋」のものではないか? とのご指摘があるかもしれない。仰るとおり古今集の「秋下」の大半は様々な紅葉...
今日のような風流は、詠んでいい人間を限定する。『真木で葺いた屋根に降りしきる時雨の音が変わった、どうやら屋根の上に紅葉が散り積もったようだ』。「真木」とは檜や杉のたぐいで、ようするに立派な屋根の別荘だ。ちなみに三夕に見え...
珍しい歌だ。「さあ時雨よ、物思いに紅涙で濡れる袖がなかったら、木の葉の後に何を染めるんだい?」。木の葉を赤く染める時雨、これを涙の隠喩として憂いをほのめかすのが習いであったが、今日の歌はその「袖」がないとしたらどうする?...
「時雨に寄せる心」を続けるが、これまでの触れたら霧散するような繊細さが今日の歌には見えない。詠み人は道因、やはり男の詠みぶりであった。『晴れたり曇ったり時雨の空模様ははっきりしないが、俺のところだけはずっと降りまくってる...
『長雨の雲が居座り続けて物思いに耽る私の袖も、時雨が降ったように濡れています』。詠み人は二条院讃岐、あまり知られていないが源頼政の娘だ。なぜ故に時雨は袖を濡らすのか? 四時の最後たる季節がもたらす悲哀、落葉に埋もれて訪れ...
昨日、そして今日もであるが千載集あたりになると四季歌に込められた抒情というものが一層深くなってゆく。平安前中期の三代集歌人が去りゆく季節をほとんど形式的に惜しむのに対し、末期の歌人らは心の底から感情を寄せる、今日の肥後も...
今日の歌には時雨ならぬ時雨が詠まれている。『隙間だらけの真木の板葺き屋根に時雨の音がする、しかし雨は漏ってこない』、なぜか? あえて言うもの野暮だが『時雨かと思ったのは木の葉が散りかかる音だった』のだ。詠み人は本当に落葉...
『時雨の雨もさすがに色を染めることが難しいようだ、山城の常緑樹の森の葉は』。松に杉、樫の木など通年葉が存在し色も変わらぬいわゆる常緑樹を「常盤(ときわ)」と呼ぶ。昨日鑑賞したように「時雨」は木の葉を染めるというのが本意で...
笠取山は宇治の歌枕であるが、標高も低く周囲の山に隠れて目立たない。ではなぜ歌に詠まれるかと言えば、理由は名前にこそある。『雨が降ると笠取山の紅葉の葉は、往来する人の袖の色までも照りまさる』。歌の解釈の前に、前提をお伝えし...
今日からはしばらく「時雨」にお付き合い頂こう。ところで同じ「雨」という気象現象を春は「春雨」といい秋には「時雨」という。この分別は「一季一景」の原則のみにあらず、詠むべき風景にも明々たる規定を設けて精緻なこだわりから生じ...