【百人一首の物語】五十二番「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」(藤原道信朝臣)
五十二番「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」(藤原道信朝臣) 「夜が明ければ、やがてまた日は暮れる」。これは二番歌の「春が過ぎて、夏が来る」と同じで、しごくあたりまのことを述べただけにすぎません...
五十二番「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」(藤原道信朝臣) 「夜が明ければ、やがてまた日は暮れる」。これは二番歌の「春が過ぎて、夏が来る」と同じで、しごくあたりまのことを述べただけにすぎません...
五十一番「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじな燃ゆる思ひを」(藤原実方朝臣) 五十番の藤原義孝は若くして亡くなりましたが、立派な子息を残しています。長子行成は三蹟の一人として知られ、この家系は世尊寺流といって書...
五十番「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな」(藤原義孝) 恋の歌が続きます、よみ人は藤原義孝。この歌で百人一首も前半終了ですが、後半は藤原氏以外の氏族はほとんど出てきません、ようするに駆逐、埋没しちゃっ...
四十九番「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつつものをこそ思へ」(大中臣能宣朝臣) よみ人は大中臣能宣、梨壺の五人の一人であった人物です。と、ここで解説を、まず「大中臣」ですが、なんか見覚えありますよね? 藤原氏の...
四十八番「風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけてものを思ふ頃かな」(源重之) 源重之は風景歌の達者です。その詠みぶりは平安の山部赤人といって過言でなく、この時代にはめずらしく大らかで親しみやすい景色を歌に多く残しました。...
四十七番「八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり」(恵慶法師) 五番の猿丸太夫は「秋は悲し」とうたい、四十七番の恵慶法師は秋を「さびし」とうたった。私たちも秋といえばなんとなく物悲しい「愁い」の季節だと理解...
景樹の歌集「桂園一枝」は、従来例のなかったまでに批評の多かった歌集です。当時は出版の手数の多く費用のかかる時代のことで、公表しようとすると板行にしなくてはなりませんが、これはとても容易なことではありませんでした。それにも...
香川景樹の歌論で重要なのはやはり、賀茂真淵の「新学」を攻撃した「新学異見」でしょう、これは文化八年、彼が四十四歳の時のものでした。他には天保三年、六十五歳に著した「古今集正義総論」、內山眞弓が記録した「歌学提要」、松波遊...
定家以来の新古今風をいまだに尊ぶ京都の堂上歌壇、それに対抗する形で、万葉集を掲げて江戸から蜂起した賀茂真淵、さらには堂上歌壇と真淵の双方を批判して、まったく新しい歌論を立てた小沢露案。これまで近世(江戸時代)の和歌史をざ...
四十六番「由良の門を渡る舟人かぢをたえゆくへも知らぬ恋の道かな」(曽禰好忠) 「ギャップ萌え」はわりとあることですよね。たとえば人前では辛く当たるのに、二人きりになると甘えてくる恋人とか、ツンデレですね。ではこんなギャッ...
小澤盧庵が唱える歌は、「ただごと歌」というものです。「ただごと歌」という言葉は「古今和歌集」の仮名序に見えて、著者の紀貫之は、「中国の詩には六義の風体があるが、わが国の歌にも同じく六種の体がある」と説明し、「ただごと」と...
真淵の事業は江戸においてなされ、門流は諸方に散り、和歌の上では、橘千蔭、村田春海などが、やはり江戸において活躍しました。当時の文化の中心はもちろん江戸でしたし、しかもそこには新興の元気と自由がありました。新風をおこす上で...
四十五番「あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」(謙徳公) 「謙徳公」というのはいわゆる諡号です。貴人が死後、生前の行いを尊んで贈られた名前ですから、よほどのエリートだと思いましたが、なるほど...
方便とみた万葉集が目的となってしまったということは、言いかえると万葉集のうちに彼自身を見出したということです。では真淵のみた万葉集の和歌はどういうのであったか。彼は晩年に「歌意考」という歌論を発表しています。これは彼の歌...