「和歌史の断崖を埋める、近世(江戸時代)和歌の本当」第八回 香川景樹の「調(しらべ)論」

定家以来の新古今風をいまだに尊ぶ京都の堂上歌壇、それに対抗する形で、万葉集を掲げて江戸から蜂起した賀茂真淵、さらには堂上歌壇と真淵の双方を批判して、まったく新しい歌論を立てた小沢露案。これまで近世(江戸時代)の和歌史をざっくりと語ってきましたがいよいよ真打の登場、香川景樹です。

香川景樹は和歌の上では、まさしく近世の巨人です。小澤盧庵の「ただごと歌」を継承して和歌を革新した点、歌才の豊かな点、多くの門弟に教へた点など、その功績からみて屈指の歌人といえます。

彼が起こした「桂園派」は明治期に、それこそ正岡子規などには「香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候」などと旧式の権現のように叩かれますが、そのはじめをみればまったく見当違いの批判であったことがわかるでしょう。
(実のところ、子規が批判の矛先を向けた「つまらぬ歌人」は、桂園派そのものではなく、桂園派が多くを占める明治の「御歌所」歌人でありました)

盧庵の歌論を「ただごと歌」とすると、景樹が生涯を通じて説き実行しことは、ひとえに「調(しらべ)論」です。彼は、「調」とは歌の父の名である、歌はすなわち「調」であると言いました。。弟子に教えて、「理なき歌は詠むべし。調なき歌は詠むべからず」とも言っています。すなわち彼は「調」というのが歌の中心と考えたのです。

さらに景樹は作歌の実際について、最上の歌とは最上の感動を言ったものだ、最上の感動とは端的の感動だ、端的の感動とはつまり第一印象ということである。この第一印象をそのままに、生き生きと表現するのがすなわち「調」である、と言いました。
従来の歌は「心」、「詞」、「調」の三つからなるものだとされていました。これに小澤盧庵は、 歌とは実景実情で、それに知的の心を加えないものだと言いました。すなわち歌の三つのうちの第一である「心」を捨てたのです。また盧庵は、「詞」は、わが今言いうる詞で言えば十分であるとして、いわゆる「歌ことば」を退けて「平語」を主張しました。
景樹はこの盧庵を継承して、「平語」と「調」とを一つとし、さらに二つのうち、「調」の方を主として、「詞」は世と共に移り変わってゆくが「調」だけは変わらない、また「詞」は軽くて「調」は重い、泣きながら歌えば喜びの詞も喜びとは聞えず、笑いながらいへば悲しみの詞も悲しみとは聞えない。であるから、人の心に染むるのは「調」だけである、こう結論づけたのです。

詞を第一印象の具象とし、その第一印象は形を主とせずに心を主としたものとして、すなわち気分だとして気分を具象するには、「調」によるほかはない。「心」すなわち知的な意義、「詞」すなわち「歌ことば」を退けたのは、盧庵の「ただごと歌」を継承した景樹としては当然のことでした。

景樹の「調論」は作歌の眼目です。しかしこれは古今和歌集すなわち紀貫之以来、千年にわたって忘れられてきたものでした。この誤りを正し「敷島の道の大道へ立ちかえらせよう」、これが大なる信念で、彼の歌論はここから出てきたものだったのです。【つづく】

(書き手:歌僧 内田圓学)

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