【百人一首の物語】五十二番「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」(藤原道信朝臣)

五十二番「明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨めしき朝ぼらけかな」(藤原道信朝臣)

「夜が明ければ、やがてまた日は暮れる」。これは二番歌の「春が過ぎて、夏が来る」と同じで、しごくあたりまのことを述べただけにすぎません。しかしそんなあたりまえがあたりまえでなくなったために、その感情に気づかされて、はっと歌に詠んだのでしょう。

夜になればまた愛しい人に会える、しかし別れの朝はまたやってくる。これは冬の時分の歌ですので会えない時はそれほど長くない、それでも逢瀬の幸福より別れの不幸の方がつらいと、作者は言っているのですね。だったら端から出会わなかった方がよかったのではないか? 作者はそんなことまで思っているかもしれません。個人的にはそんな人間に恋愛は毒でしかないと思うのですが、そんなことを早々に悟った人はこんな歌を詠みます。

「ことならば咲かずやはあらぬ桜花見る我さへに静心なし」(紀貫之)

詠まれているのは「桜」ですが、平安歌人にとって花鳥風月と恋とに掛ける心はほとんど同じです。私から作者へのアドバイスがあるとすれば、「この世にある女という性を無視しろ」ということですが、どだい無理な話ですよね。この世に咲くなといって咲かない桜はありません。

詠み人は藤原道信、五十番の藤原義孝と同じように夭折した人ですが、どうも定家はこういう人たちに身に沁みる恋歌を背負わせたようです。彼らの歌には能宣や実方の歌にある彫心鏤骨の技巧はありません、ただ朴訥とした嘆きがあるのみです。雅な平安貴族の別の一面を、定家は教えてくれているようです。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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