「和歌史の断崖を埋める、近世(江戸時代)和歌の本当」第九回 香川景樹による賀茂真淵の批判

香川景樹の歌論で重要なのはやはり、賀茂真淵の「新学」を攻撃した「新学異見」でしょう、これは文化八年、彼が四十四歳の時のものでした。他には天保三年、六十五歳に著した「古今集正義総論」、內山眞弓が記録した「歌学提要」、松波遊山が集めた「隨所師説」、鈴木光荷が上梓した「桂園遺文」などがあります。これら多くの論で、ようするに景樹が言いたかったのは「調(しらべ)」のことであり、その場合場合に、例を変えて例えたにすぎません。

景樹はくり返して、口語はそれだけで「調」を持っていると言っています。誰の話であっても、一日話してみても少しも乱れがない、これは生まれ出づる時から馴れて、覚えて、感を直ちに語になしえるからだ。「調」とは本来たやすいのであるが、しかし歌になると不思義に「調」を失ってくる。何が「調」を失わせるのか? これはひとえに「誠」である。裏を返せば、「誠」さへあれば「調」は必ず得られる。また名利の念、歌は他に見せるのだと思い、または歌を詠んで他から感心されようとする心が起るために、「詞」が理にわたって「調」を失ってしまうのだ。つまりは真心があれば「調」は直ちに得られるといことで、これが景樹の繰り返し述べていることなのです。

賀茂真淵の「新学」を非難したのも、この“真心即調”の心からです。真淵は我が国民として尊重すべきは古代精神で、その最もよくあらわれているのが「万葉集」である、であるから、この古代精神を体得するために万葉風の歌を詠め、と説きました。すなわち真淵は、歌は向上の方便と見ていたのです。景樹はこれと正反対で、歌こそが目的だと見ました。歌は即「調」で、「調」は「誠」だと見たのです。その彼から見ると、真淵は偽ったことを教えていることになりますから、認めることができなかったのも当然でしょう。
真淵は古語で「感」を述べろと言うが、学んで初めて知る古語では「感」など述べられるものではない。強いてすれば偽物となり、偽物は歌道の心ではないと景樹は説きました。また「詞」は世とともに移るものであるから、古きを尊しとし今を卑しとするのは誤っている。しかも歌の生命は「詞」にはなくて「調」 にある、その意味でも古語に偏るのは誤っているのだ、景樹はこのように考えたのです。
当時の江戸歌壇は真淵の門流によって占められた江戸歌壇でありました。江戸の歌界へ端的に挑戦するには、真っ先に真淵に反対するのが適当であったことでしょう。また世間を問題とした景樹です、その意味もあっての彼の論だと考えられます。ですからこの論は、景樹としては所信を披露したことと相違ありません。

これまでの記事で、景樹の歌風と論は「第一印象」そして「気分」を主として表現するのであると説明しました。そして「調」とは、それを遂げる上に第一に必要なもので、彼としてはそこに中心を置くより外はなかった。また「第一印象」と「気分」を重視していたことは盧庵のしていたことで、彼の論は、単に「調」を言ったに過ぎない、このようにも説明しました。
景樹は「調」を得るのは一に「誠」だと言って、その「誠」を古代精神だと言い、また宗教的のものだとも言いました。しかしその「誠」は、今日で言うところの心の「緊張」なり「純粋」と言い換えてほとんど違いはないでしょう。でもそれをそう言わなかったのは、時代のためだと思われます。また景樹の歌風と論とからいうと、その核の一点つまり、「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける(略)心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり」ということを、「古今和歌集」よりも「紀貫之」よりも、彼の方が徹底して実践してたのですが、それにもかかわらず、景樹が古今集と紀貫之を説いてやまなかったのも、同じく時代のためだったと思うのです。

ところで景樹の歌論は一見シンプルなようで、難解でもあります。それは「調」は「詞」に先立ったもので、「調」を具象化する材料にすぎないと説く一方、「調」は「詞」を離れてはないものだ、「調」の第一は「詞」の続きの典麗なところにあると言い、「心」、「詞」、「調」と言った時代の「調」に変わらなもののように説いている場合があって、「調」の意味を曖昧にしているのが一番の理由です。これらは門弟に教える際の方便であって必ずしも矛盾とは言い切れませんが、ある程度の彼に論の不徹底があったのは事実です。【つづく】

(書き手:歌僧 内田圓学)

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