「和歌史の断崖を埋める、近世(江戸時代)和歌の本当」第七回 小澤蘆庵の「ただごと歌」

小澤盧庵が唱える歌は、「ただごと歌」というものです。「ただごと歌」という言葉は「古今和歌集」の仮名序に見えて、著者の紀貫之は、「中国の詩には六義の風体があるが、わが国の歌にも同じく六種の体がある」と説明し、「ただごと」というのをその六種のひとつとして説明しています。しかしよくよく見れば“六種”と言っていたわが国の風体は強いて挙げたも同然で、実のところは大きく二つにすぎません。ひとつがわが心を「譬喩を設けて說明」するもの、もうひとつが警喩なしに「直ちにその物を言うこと」です。貫之はこの譬喩なしに現わするのを「ただごと歌」と分類し、盧庵の用いているのもその意味においてです。

「ただごと歌」というのは表現の方面からつけた名ですが、蘆庵がもっとも言いたいのは「歌は內容が主で表現は従である」ということでした。
歌は心を主としたものだということは、今日では自明のことのようですが、しかし当時の歌界ではこの自明のことが新しいことでした。前に書いたように、当時は歌を主として、心は従としていたのです。しかし、ここにひとり盧庵は違いました。歌は心の表現である、そしてこの心は昔も今も変わらないものだ。なぜなら古人の歌でも読めば直ちに心に感じられるし、国土にもかかわりがなく、例えば中国人の歌とてインド人の歌とて読めば心に響く。それは歌は言葉ではなく、心を主としているからだ。心は天地と同じく広い、その広い心を表現したものであればこそ「歌は道」というのである。また道であるがゆえに、作るにたやすく読んで面白いのだ。このようなことが、蘆庵の主たる訴えであったのです。

蘆庵はさらに続けます。古来の歌は、ひとつに歌の大道を歩んできた。しかるに「新古今和歌集」の時代から邪路に入って、この歌の心を忘れて、技巧だけの姿に成り果てた。そのいかに心を忘れたかは、新古今集に心をまっすぐに表現した歌がないことでわかる。
人の心とは古来変わることはないが古代の方が純粋だ、純粋な古代であればいつの時代の歌を学んでもいいのだが、古代の中頃のすなわち「古今和歌集」が、今から見ると一番便利であるからそれを学ぶべきだ。そして古今集は紀貫之の心の現れであり、自分は貫之を学ぶのだ。このようにも盧庵は熱弁しました。

さらに、貫之は古今集の序で、歌は「心に思ることを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり」と言っていて、これすなわち「ただごと」であり、貫之の歌にはその種のものが多いとも言っています。しかし貫之の歌について、素人目にも盧庵が言うような「ただごと」ではけっしてないと思われるのですが、これは盧庵が“具象化 ” という意味で言っていると思われます。古今集がすでに実際的ではなく、かなりまで思想的であったのを、それを一路押し進めて行つたのが新古今集であったということ。また表現の面でも古今集にはまだ単純なところがあったが、その単純に飽きて一意複雑を欲して、その頂点まで行ったのが新古今集であった。これを歌の変化の上から見れば、「ただごと歌」を捨てて譬喩の方に走った、このように理解したのです。
当時の花壇の多数を支配する新古今集の風体を間違っているとみた盧庵には、貫之と古今を迎へて見て、新古今を批判的にみるというのはある意味当然のことだと思います。

また蘆庵は言葉について、その時に言い得られる言葉こそが、もっとも正しい言葉だと主張しました。これは前に書いた当時の「制の詞」(遠慮すべき詞など)に対する反対と、今一つは、賀茂真淵によって提唱された万葉集の歌に対する反対表明でした。

これらが盧庵の歌論の中心ですが、彼は「歌に法なく歌に師なし」といたところから説きだしていて、彼の眼前にある宗匠家に対する批判が最大の目的だったのです。
盧庵自身は宗匠家の一向に変わらない歌風と、当時江戸ですでに発表されていた賀茂真淵の歌論に刺激を受けて、このような歌論を生むに至るのですが、しかし盧庵の歌論を真淵のに比べると、真淵は歌を国家主義の方便として見ていましたが、盧庵は歌を目的としていて、その点では、盧庵の方が純粋な考へ方をしたと言えます。

彼は「歌は心を主としたものだ」と言い、「心に触れてきたのはことごとく歌だ」と言いました。これは言い換えると、「自身の現実はすべて歌になり得るものだ」ということです。「現実は肯定できる」ということです。
この「現実肯定」を当時の堂上家にはできずに、身分の低い盧庵ができたは、彼が武士であったがゆえではないでしょうか。自身の力を信じて所信は貫きうるのだと思つている武士の気質こそが、これを思わせたのではないでしょうか。ここに江戸時代という時代の影響があると思うのです。

盧庵は先のように所信を語る時には古今集を借り、紀貫之を頼っています。「ただごと歌」の上から言えば、彼は古今集よりも、貫之よりも、遙かに「ただごと」を実践していたわけですが、それにも関わらず古今集と貫之をと言っているのは、古典と古人に頼って権威を付けなければ、周囲の者が耳を傾けなかったからでしょう。あるいはまた、古今集はその名の知られている割合には読まれていなかったので、彼としてはそれを一つの創見と感じ、無意識に古今集と貫之とを尊敬して、無意識にそう言っていたのかもしれません。いずれにしても、そこにも同じく時代の影響があったのだと考えるのです。【つづく】

(書き手:歌僧 内田圓学)

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