楝(あふち)咲くそともの木かげ露落ちて五月雨はるる風わたるなり(藤原忠良)
紫陽花は八代集には見えない、そのようにご紹介した。では平安歌人は憂鬱な梅雨の季節、何に心を寄せたのか? その答えのひとつが「楝(あふち)」である。センダンと言い換えた方が分かりいいだろうか、初夏に紫色の小さい花をつける。...
紫陽花は八代集には見えない、そのようにご紹介した。では平安歌人は憂鬱な梅雨の季節、何に心を寄せたのか? その答えのひとつが「楝(あふち)」である。センダンと言い換えた方が分かりいいだろうか、初夏に紫色の小さい花をつける。...
今日は紫陽花の歌をご紹介しよう。紫陽花はなかんづく雨に濡れた様が愛でられ、日本の初夏になくてはならぬ花となっている。むろん和歌に詠まれて当然という向きもあろう、しかし実際は全くそうでないのである。躑躅は辛うじて古今集の恋...
いずれ菖蒲か杜若というが、和歌でこのふたつを見分けるのは易しい。歌に詠まれる菖蒲はいわゆる「花菖蒲」ではなく「根菖蒲」であるため、違いが一目瞭然なのだ。しかしながらこの歌、杜若が詠まれているのだが、それが一見して見当たら...
花の季節はやはり春なのか、和歌の夏は鳥(ホトトギス)や雨にほとんど占められて、かろうじて卯の花や花橘が詠まれるくらい。存在は極めて薄い。しかし我々が夏に連想する躑躅(つつじ)や紫陽花は詠まれないのかというと、そんなことは...
昨日の後鳥羽院の歌、現実のむなしさにせめて夢で逢えたいという哀訴が込められていた。だが果たして現実に逢瀬を遂げたところで、それは本当に幸福なのだろうか? 出会いと別れは表裏一体、夜が必ず来るように朝もまた必ずやって来る。...
『日暮れの月を待っていたのに、あれよという間に夜は明けてしまった。短い夢を見ることもなく』。夏の短夜の歌であるが、終始恋の匂いが漂っている。月は男の暗喩、待つ女はそれを見ることなくはかなく夜は明けてしまうのだった。こんな...
「高砂の峰の松風」には何やら新古今風の艶なる声調を覚えるが作者は藤原兼輔、後撰集に採られた歌である。ということで内容はいたってシンプル、「夏の夜、深養父が琴ひくを聞きて」という詞書に明白だが、『美しい琴の調べを更けゆくほ...
季節は穏やかでありながら、移ろひをやめぬ。『もう朝になったのか? 寝覚めの枕にはホトトギスの声が聞こえるようだ』。夢か現か? 寝覚めの際はおぼろげで、ホトトギスの声が頭に残る。それは恋の名残、夢の中でしかあえない最愛の人...
ここ数日、意味深のホトトギスが続いたせいだろうか、この歌には心地よい脱力感を覚える。『寝覚めると月が残る空にホトトギスが鳴いている。起き出でて、その名残の声を聞くとしよう』。この歌に見える有明月には恋の匂いなどまったくな...
式子内親王の代表歌だ。「そのかみ山」は以前も説明したが「そのかみ(昔)」と「其神山」を掛ける、そしてこの山の下に鎮座するのが賀茂神社である。言うまでもなく式子が斎院として、多感な十代を駆け抜けた場所だ。詞書にも「 いつき...
『私には関係なく、ただホトトギスが鳴いている夕暮れ』。絶望感に打ちひしがれた歌であるが、歌中の「なほうとまれぬ」にある〝ぬ〟の解釈によって歌の真意が変わるので注意が必要だ。「打消」とみれば『嫌いになれない』、「完了」とみ...
ホトトギスはことに詩情を駆り立てる、まこと和歌において欠かせない存在だ。今日の歌を見よ! このような歌われ方もするのかと驚愕を覚える。『いつもよりも親しく感じられるよ、ああホトトギスよ。死出の山路の道案内をしてくれると思...
抒情歌である和歌は一見平明な風景のスケッチも、なんらかの心的象徴を含むと昨日説明した。では今日の歌はどうであろう? 『空にはホトトギスの声がして、卯の花の垣根に白い月が出てきた』。この歌について言えば、スケッチつまり純粋...
静かなる幻滅。『ホトトギスが鳴いている方を見ると、有明の月が残っていた』適訳するまでもない、単純な写生歌である。しかしこの単純な写生歌が和歌には極めて少ないのだ。和歌とは基本的に抒情歌であり、たいていの歌には悲しい恋しい...