撫子のとこなつかしき色を見ば元の垣根を人や尋ねむ(光源氏)
「撫子」は別に「常夏(とこなつ)」の異名を持つ。これは撫子が秋の七草にも数えられるように、夏を越え秋にかけて花を咲かせることに由来する。さて、今日の歌は源氏物語から撰んだ、巻はずばり「常夏」、いわゆる「玉鬘十帖」の中ほど...
「撫子」は別に「常夏(とこなつ)」の異名を持つ。これは撫子が秋の七草にも数えられるように、夏を越え秋にかけて花を咲かせることに由来する。さて、今日の歌は源氏物語から撰んだ、巻はずばり「常夏」、いわゆる「玉鬘十帖」の中ほど...
印象的な写生歌に長けた式子内親王であるが、今日のような物語調の詠歌も珍しくない。ただ俊成卿女の名手と違ってあくまでも淡泊に身悶えてみせる。『決して戻りはしない過去、それを今と思うような夢まくら。花橘が匂っていたのだ』。こ...
今日の橘、昨日までとは様子が異なる。「しめる」とは匂いを染み込ませるの意、つまり風に散る花橘の香りを袖に移し、それをもって彼女との添い寝の手枕にしてやろうというのだ。伊勢六十段の文脈はほとんどなくなっている。ただ男の企み...
『夕暮れは、どの雲を吹いた風の名残というので、花橘はこんなにも懐かしく薫るのだろう』。「雲の名残」はたんなる夕暮れの風景などではない、荼毘に立つ煙のメトニミーとなる。つまりこの歌は四季の体を成しながら、実体は花橘に寄せた...
昔の人を思い出すという花橘の香り、嗅いだことがあるだろうか? 梅や菖蒲もそうであろう、確かにリアルな自然を経験していた方が歌の共感力は高まると思う。しかしそんなもんなくたって、いやかえってないほうが歌に陶酔できる場合があ...
『今年から咲きはじめた橘の花が、いったいどうした理由で昔の香りに匂っているのだろう』。本当にどうしたというのだ? というのは香りの理由ではない、新古今の名うて家隆らしからぬ平凡のそれだ。花橘は「昔の人を思い出す」というノ...
「花橘」が詠まれたこの歌、古典ファンであればそらんずる方も多かろう。古今集では題知らず、よみ人知らずで採られるが、伊勢では第六十段に「むかし男(業平)」の歌として物語が載る。詳細は出所に譲るが、女(元妻)が酒の肴に出した...
『五月雨が上がった空、なんだか心が惹かれる匂い。きっと花橘に風が吹いてるんだ』。いかにも和歌らしい余情を感じる風景が詠まれている。これまで数首の五月雨を鑑賞したが、お気づきになられただろうか? それは五月雨は、鬱蒼と降り...
『雨は上がり、空には清らに澄んだ月が浮かぶ。しかし私はの気持ちは晴れることなく、変わらず泣き続けています』。五月雨の恋であるが昨日の躬恒より幾分優れていよう、「五月雨」(みだれ)を響かせて、苦悶の女を間接的に描いている。...
『五月雨のように、あなたへの思いに乱れ始めた私は、小泥ならぬ恋路にはまってずぶ濡れです』。「五月雨」は「涙」の暗喩となり「乱れ」という言葉の響きも相まって恋の抒情を掻き立てる。しかし「五月雨」と「乱れ」の掛詞を私は見たこ...
『五月雨の雲の隙間から、雨ではなくてホトトギスの声が落ちてきた』。諧謔めいているがどうだろう? 詠み人は慈円、慈円といえば多分に堅物のイメージがある。それは摂関家の筋であり天台座主というエリート、「愚管抄」を起こし後鳥羽...
『五月雨はやんだのかなぁ? 山に掛かる雲が薄くなってるよ』。小学生の絵日記だろうか? 違う、玉葉集に採られた花園院の御製歌だ。趣向はほとんど似ているが、昨日の歌には山の色に発見があった。今日のはどうだろう、写生というにも...
詠み人の宗尊親王は異例の経歴の持ち主である。後嵯峨天皇の第一皇子というやむごとなき身分でありながら、招かれて鎌倉六代将軍となった。歴史上、皇族将軍としては初めての人である。これにより何が起こったか? 鎌倉に本格的な和歌文...
和歌とは基本的に決められた形式に沿って詠む、そういう文芸である。言葉の修辞や景物の設定、本歌取りなどを組み合わせて、その時々に相応しい歌を作るのだ。結果生まれるものは没個性の権化というもので、近現代人にはもはや退屈になっ...