万葉集の代表歌、歌風、選者そして歴史をざっと知る!

新元号「令和」の出典となったことで、一躍脚光を浴びた「万葉集」。今回はこれから古典和歌に親しもうという方に向け、万葉集の秘密をお話しします。ぜひご一読ください。

玉石混交な万葉集と、キラキラの古今集

万葉集を一言で表すならば、それは「玉石混交」です。

古くは仁徳天皇の后磐姫から大伴家持まで、およそ四百年にわたる人々の歌を蒐集。ちなみにこれは八代集、古今から新古今に至る年月を凌ぎます。詠み人は天皇から下級官人はては乞食まで貴賤貧富関係なく、総歌数は四千五百首を上回り日本史上最初で最大というべき歌集です。

雑多というのは先に示したのが端的な現れですがそれに留まりません。歌の形式も定まりなく(長歌、短歌、旋頭歌、漢詩などが存在)、歌風だっていわゆる大らかな万葉調の「益荒男ぶり」だけでなく、後の古今集に通じるような「手弱女」もある、また写生歌だけでなく観念的な歌も多い、さらに後の勅撰集では詠べき景物や歌の配列に細心の注意を払っていますが、万葉集にはそんな意識ほとんどない。花も詠めば屎も詠む、まさに玉にも石にも出会える作品群なのです。

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ちなみに初の勅撰集であり日本文化のバイブルである「古今和歌集」は、いうなれば「玉」のみが採取された歌集。キラッキラの宝石がその色・形で整然と並んでいます。そして新古今和歌集も同じ玉の歌集ではありますが、その玉は見る人によって千変万化する「幻の玉」、万葉集と比較するとこのように譬えることができます。

選者(編纂)はだれか?

万葉集を語るのはその作品と目録のみで、序文はおろか編纂にまつわる確固たる資料は残っていません。ですからその成立や撰者についてはすべて推測になります。諸説ある一つが「橘諸兄」編纂説、

「奈良の都、聖武天皇の御時になん橘諸兄の大臣と申す人、勅を承りて万葉集をば撰ぜられけると申し伝ふめる」
(古来風体抄)

と、このようにかの藤原俊成は伝えています。
しかしもっとも有力なのは「大伴家持」編纂説でしょう。万葉集その四千五百首のほぼ一割を占め、巻二十に採られた「防人歌」も、家持が難波で防人の検校に携わった際に集められたことが分かっています。

「かの御時よりこの方 年は百年あまり 世は十継になむなりにける」
(古今和歌集 仮名序)

上は古今和歌集の仮名序の一文ですが、これを醍醐天皇を起点に上ると平城天皇の時世となり、その御代始めの大同元年まできっかり百年になります。平城天皇といえば平城京への遷都の詔を出した人物(薬子の変)、万葉(奈良時代)への思い深かったに違いありません。であるから、家持が集めた歌々が手に入つたのを機会に、奈良以前の歌集を勅撰しようと企てた張本人である、と論じたのは国学者の折口信夫でした。

巻毎の歌風分類と代表歌

万葉集は二十巻の構成です。古今集以後の勅撰集もこれにならって二十巻とし、巻ごとに四季(春夏秋冬)や恋などの部(テーマ)を設定しました。しかし万葉集には巻ごとの明確なテーマというのがありません、鑑賞しづらいですよね。というわけで、以下のように内容別に各巻を整理しそれぞれ代表歌を挙げてみました。
※都合上「短歌」のみピックアップしていますが、万葉集はそれならではの「長歌」の響きをぜひ鑑賞してみてください

大歌:巻一、二、三、四、六

大歌とは宮廷儀式、宴遊等で歌われた歌です。これがさらに「雑歌」、「相聞歌」、「挽歌」と分類されますが、内容の大半は天皇や皇室に連なる人々に捧げた賛歌です。
歌の詞書きには詠まれたシーンや詠み人が仔細に記され、かつ歌は年代順に整然と並べられており、さながら大和王朝叙事詩風の仕立となっています。

これらの巻で目立つのは歌の聖と讃えられる柿本人麻呂や山部赤人ら伝説的な宮廷歌人。人麻呂などは大歌よりも、赴任先の石見で綴った美しい羇旅や恋を歌った独泳の方が胸を打たれるかもしれません。

15「わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ」(中大兄皇子天智天皇)
20「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王)
21「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆえに我れ恋ひめやも」(大海人皇子=天武天皇)
27「よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」(天武天皇)
28「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山」(持統天皇)
37「見れどあかぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む」(柿本人麻呂)
48「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」(柿本人麻呂)
51「采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く」(志貴皇子)
58「いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟」(高市黒人)
86「かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを」(磐姫皇后)
139「石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(柿本人麻呂)
142「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」(有馬皇子)
161「北山にたなびく雲の青雲の星離り行き月を離れて」(持統天皇)
266「近江の海夕波千鳥なが鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」(柿本人麻呂)
318「田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(山部赤人)
337「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ」(山上憶良)
343「なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ」(大伴旅人)
415「家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ」(聖徳皇子)

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筑紫歌壇の歌:巻五

「令和」の由来となった梅の宴はここに採られています。太宰府を中心とした歌人たちの生き生きとした歌に、筑紫歌壇の活気を伺い知ることができます。

しかし注目すべきは山上憶良の作品群です。憶良は本朝歌人唯一の「士大夫」といった稀有な存在、著名な「貧窮問答歌」はじめ「子らを思ふ歌」などには、当時の庶民の貧しさ患苦がありありと映し出されています。

803「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」(山上憶良)
821「青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし」(沙弥満誓)
822「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」(大伴旅人)
893「世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(山上憶良)

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題に付ける歌など:巻七、九

巻七には〇〇を詠むとか、〇〇に譬えて詠むといった、お題に沿って詠んだ歌が並んでいます。平安中期以降に盛んになる「題詠」に通じますね。巻九は諸々の「雑」「相聞」「挽歌」が寄せ集められています。

『天を詠む』
1068「天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ」(柿本人麻呂集より)

1664「夕されば小倉の山に伏す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも」(雄略天皇)
1810「葦屋の菟原処女の奥津城を往き来と見れば哭のみし泣かゆ」(高橋虫麻呂)

四季歌:巻八、十

春夏秋冬を詠んだ歌がおおまかに分類され並んでいます。しかし平安の勅撰集のような細かな配列にはなっていませんし歌風にも一切制限がありません。それでも観念的な歌やことば遊びを含んだ歌もあり、後の古今集への萌芽を感じ取ることができます。特筆は圧倒的な物量で畳みかける七夕の歌群、中国文化への憧れが滲み出ています。

1418「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(志貴皇子)
1424「春の野にすみれ摘みにと来しわれそ 野をなつかしみ一夜寝にける」(山部赤人)
1435「かはづ鳴く神奈備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花」(厚見王)
1538「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花」(山上憶良)
1639「沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも」(大伴旅人)
2029「天の川楫の音聞こゆ彦星と織女と今夜逢ふらしも」(柿本人麻呂集より)
2052「この夕降りくる雨は彦星の早漕ぐ舟の櫂の散りかも」(作者不明)

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相聞(恋)歌:巻十一、十二

人間が心から歌うとき、そこには恋があります。万葉集の相聞歌をみると心底そう思います。
巻十一、十二に用いられた「正述心緒」「寄物陳思」 という分類には当時にしてすでに歌の本質論があったことを示しますが、そのうち 古今集以後の勅撰集はいや日本文学は物に心を託す「寄物陳思」にこそ美つまり“ あはれ ”を得たのでした。

『正述心緒』
2376「益荒男のうつしし心も我れはなし夜昼といはず恋ひしわたれば」(作者不明)
『寄物陳思』
2490「天雲に翼うちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君しまさねば」(作者不明)

臣民の歌:巻十三、十四、十五、十六

東人や乞食の歌など後の勅撰集にはない、これぞ万葉集というべき雑多な歌が揃っています。これらの巻がなければ、万葉集は今の評価をされていなかったでしょうし、俳諧を旨とする現代短歌・俳句は生まれていなかったかもしれません。
ちなみに正岡子規は「萬葉を讀む者は第十六卷を讀むことを忘るべからず」(萬葉集卷十六)と評しています。

3384「葛飾の真間の手児名をまことかも我れに寄すとふ真間の手児名を」(作者不明)
3569「防人に立ちし朝開の金戸出にたばなれ惜しみ泣きし子らはも」(作者不明)
3807「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」(よみ人知らず)
3929「ひしほす(醤酢)にひる(蒜)つきかてて鯛ねがふわれにな見えそ水葱のあつもの」(長意吉麻呂)
4328「大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて」(丈部造人麻呂)

大伴家持の歌日記:巻十七、十八、十九、二十

万葉集の巻十七以降は大伴家持の歌日記が続きます。その集歌数はゆうに四百五十首を超えるでしょう。家持の歌は万葉らしい空気を感じさせながら、千載や新古今なみの余情を静かに感じさせます。万葉歌のひとつの到達点といえます。

また巻二十には、家持が難波で防人の検校・監督に関わった際に集めたとされる「防人歌」が採られています。故郷東国を離れ、片道切符の覚悟で歩む防人の道行きには、当たり前ですが一人一人に悲しき別れのドラマがあったことを思い知らされます。

『防人歌』
4346「父母が頭掻き撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」 (作者不明)
4425「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」
(作者不明)

『大伴家持詠』
4139「春の苑紅にほふ桃の花したでる道に出で立つ乙女」(大伴家持)
4291「我が屋戸のいささ群むら竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも」(大伴家持)
4292「うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しもひとりし思へば」(大伴家持)
4466「磯城島の大和の国にあきらけき名に負ふ伴の男こころつとめよ」(大伴家持)
4516「新しき年の始めの初春のけふ降る雪のいや重け吉言」(大伴家持)

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後世の解釈

いまでこそ日本最古の歌集として評価が高い万葉集ですが、明治より前はそれほどのものではありませんでした。古今和歌集! これこそが日本文化の伝統であり源泉として圧倒的だったのです。古今集で歌われた世界が、後の勅撰集はもちろん物語、書画、能や茶といった芸能まで、おしなべて影響を与え続けていたのです。

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これをコペルニクス的転回というように一変させたのが、正岡子規ら明治の歌人たちです。

「仰おおせの如ごとく近来和歌は一向に振ひ不申もうさず候。正直に申し候へば万葉以来実朝さねとも以来一向に振ひ不申候」
(歌よみに与ふる書)

以後詩歌の本体は万葉集のなかでも写生的な歌に求められるようになりました。現代の短歌の本流ももちろんこれに倣っています。かくして花鳥風月に託して余情に美を得るような文化活動はほとんんど失せてしまいました。

ところで中古の歌人たちは、いったい万葉集をどう評価していたのでしょうか?
藤原定家は歌論にこう記しています。

「万葉集は、げに代もあがり、人の心もさえて、今の世には学ぶとも、更に及ぶべからず。殊に初心の時、おのづから古体を好むこと、あるべからず。たゞし、稽古年重なり、風骨、姿、風采、、歌風、詠み定まる後は、また、万葉の様を存ぜざらむ好士は、無下の事とぞ覚え侍る。稽古の後詠むべきにとりても、心あるべきにや」
(毎月抄)

高く評価しつつも、古いために言葉や読み方が違うため、特に初学者などは好むべきでない。しかし熟練者はこの限りではないと言っています。当時からしてすでに、万葉集とは現代とかけ離れた古典中の古典であったわけですね。

さて万葉集と古今集。近代以降、なにかと対立して論じられがちなこの二つですが、日本文化を正しくそして深く! 鑑賞・批評するのであれば「両方とも親しむ」これが正解であることは言うまでもありません。

おまけ(八代集とのつながり)

この万葉集と古今集ですが、その成立にはおよそ150年の開きがあります。その間に何があったかというと、空前の漢文化(漢詩)ブームが巻き起こっていたのでした。勅撰の漢詩集はなんと三つも編纂(凌雲集、文華秀麗集、経国集)されたほどです。
しかし政治文化の手本たる唐は衰退著しく、九世紀には遣唐使などほとんど送られなくなります(廃止は894年)。内に目を向けると、藤原氏による摂関政治が起こり後宮の文化が醸成されつつありました。ここでいよいよ、伝統的な大和歌である和歌が一躍文化のメインストリームに戻る好機が訪れたのです。

当初、日本最初の勅撰和歌集は「続万葉集」という名前であったといいます(古今集の試行として行われた「寛平御時后宮歌合」の歌は、編まれて「新撰万葉集」と付けられました)。ですから万葉集と古今集は、ひとつの連続した作品とも考えられそうではありますが、実はほとんどそうではありません。
たしかに万葉集の巻八、十の四季歌などを見ると古今集とのつながりを感じられますが、これは一種の漢詩趣味で共通しているのです。なぜなら古今集には、驚くべきことに万葉歌人はまったく採られていません。もしかしたら「よみ人知らず」に含まれているのかもしれませんが、名前が確実に残るのは六歌仙からなのです。

つまり古今和歌集とは、和歌をまっさらな状態からリスタートさせた歌集といえるのです。
万葉歌人、なかでも山部赤人や大伴家持などは詩歌の高みに到達しました。しかしなぜ、それを切り捨てて初めからやり直したのか? それはある発明が影響していると思います。それは「ひらがな」です。

漢文化が跋扈するなか、大和人はそれに満足せず、言葉や文字をより自分たち好みに変化させていきました。その結実が「大和言葉」であり「ひらがな」であったのです。古今集の歌は間違いなく、表音文字であるひらがなで、かつそれを書き留めることを前提として詠まれています。でなければ同音異義の掛詞や巧緻なパズルたる序詞がこれほど多用されるはずがありません。※ゆえに古今集は「技巧的」という枕がつきます
ようするに古今和歌集とは、はじめて大和人のアイデンティティを文化で示さんと力んで編まれた戦略的で革新的な歌集だったのです。

このリスタートには危うさもありました。言葉巧みで理知的な古今歌は、詩情という感動をなくしてしまったのです。赤人や家持が到達した余情美を古今集は失ってしまいました。しかし、和歌の歴史は続きます。後撰、拾遺と続き千載そして新古今に至ると、歌人たちは歌のまことの価値に気づきます、それが余情美です。そして新古今歌人は万葉のそれを上回る余情美を得ることに成功しました。いわば新古今和歌集とは、かつての歌の課題全てが止揚して成った美の極致であったのです。
ところで思い出してみてください、百人一首に採られた赤人と家持の歌、これらはいずれも新古今集の蒐集歌です。私たちは定家からのこのメッセージをしっかり受け取らなければなりません。

「令和」の時代。薄っぺらな万葉集ブームで終わるのはもったいない。
ここは万葉、古今そして新古今! 和歌の世界を行きつ戻りつ、ぜひ深く楽しんでみましょう。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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