【百人一首の物語】九十九番「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」(後鳥羽院)
九十九番「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」(後鳥羽院) ついに百人一首も二首を残すのみとなりました。しかしこの二首こそが百人一首を百人一首たらしめる二首であり、後鳥羽院、順徳院がここに置かれていな...
九十九番「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」(後鳥羽院) ついに百人一首も二首を残すのみとなりました。しかしこの二首こそが百人一首を百人一首たらしめる二首であり、後鳥羽院、順徳院がここに置かれていな...
百人一首は華やかなる王朝文化を今に伝える屈指のアンソロジー。学校で教わったこともあるでしょうし、お正月にカルタ遊びで触れたこともあるでしょう。和文化が加速的に廃れゆく今、気軽に古典文学に触れられる歌集として、この価値はい...
歌塾は「現代の古典和歌」を詠むための学び舎です。初代勅撰集である古今和歌集を仰ぎ見て日々研鑽を磨き、月に一度折々の題を定めて歌を詠みあっています。 令和四年一月は以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。 ...
後鳥羽院は帝王の中の帝王というような人物です。といっても、この時代の政治権力は実質的に鎌倉の幕府に移っていましたから、院の力は主に「文化」や「スポーツ」活動において発揮されました。 後鳥羽院がハマった文化・スポーツは多岐...
源実朝は若干12歳でその座についた鎌倉幕府の第三代征夷大将軍。父は源頼朝、母は北条政子とまさに武人のサラブレッドのような人なのですが… この記事の音声配信「第25回 アーティスト特集「源実朝」」を Youtubeで聴く ...
九十八番「風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける」(従二位家隆) 風で秋を知る、というのは和歌の定石で百人一首では七十一番がこの一手で詠まれています。九十八番はそれを踏まえつつも本意は往く夏を惜しむ心であっ...
九十七番「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」(権中納言定家) ついに御大の登場、藤原定家です。「新古今集」と「新勅撰集」のふたつの勅撰集の撰者であり、歌人にして正二位で権中納言の高みに昇った大人物、...
九十六番「花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり」(入道前太政大臣) 「新勅撰和歌集」所収の歌、採られた部は「春」ではなく「雑」なので、主題は古りゆくわが身にあります。 「落花を誘う風が強く吹く庭は、花が雪...
九十五番「おほけなく浮世の民におほふかなわがたつ杣にすみぞめの袖」(前大僧正慈円) 最後にして最高位の坊主、それが慈円です。貴族には官位・位階という整然としたランク分けがありましたが、これは坊さんにもあってそのナンバーワ...
歌塾は「現代の古典和歌」を詠むための学び舎です。初代勅撰集である古今和歌集を仰ぎ見て日々研鑽を磨き、月に一度折々の題を定めて歌を詠みあっています。 令和三年十二月は以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。...
九十四番「み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり」(参議雅経) 参議雅経は「飛鳥井雅経」です。雅経は多才な人で、和歌では後鳥羽院の和歌所の寄人となって「新古今和歌集」の撰者に加わり、蹴鞠では院に「蹴鞠長者」と称...
令和和歌所では「和歌を楽しもう!〜百人一首と筆あそび〜」と題し、東の歌の都こと鎌倉にほどちかい逗子の「小笠原学園」にて月一回講座を開催しています。 この講座は「古典和歌(百人一首)」を丁寧に鑑賞し、それを「かな書」で書い...
令和和歌所では、和歌を知り学び、詠むための「歌塾」を開催しています。 今回はその様子を一部ご紹介、『平兼盛vs壬生忠見の恋歌対決』と『天徳内裏ほか有名な歌合せ』について話しています。 和歌の型(基礎)を学び、詠んでみよう...
九十三番「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」(鎌倉右大臣) 歌の「かなし」は「心が惹かれる」という意味です。これを今の「悲しい」とすると、歌の意味が薄弱となってしまいます。とはいえ渚を漕いでゆく漁師の小...