【百人一首の物語】九十五番「おほけなく浮世の民におほふかなわがたつ杣にすみぞめの袖」(前大僧正慈円)

九十五番「おほけなく浮世の民におほふかなわがたつ杣にすみぞめの袖」(前大僧正慈円)

最後にして最高位の坊主、それが慈円です。貴族には官位・位階という整然としたランク分けがありましたが、これは坊さんにもあってそのナンバーワンが「大僧正」でその次がだいたい「僧正」です。
こういう立派な地位にはどんなお坊さんがなれるのかといえば、すごい修行をへて悟りを開いた人… ではなくて、大貴族の家の人、ということになります。世知辛いですね。

十二番の僧正遍照は桓武天皇の孫で、六十六番の前大僧正行尊の父は参議の源基平でした。では慈円のお父さんはだれかというと、なんと七十六番の藤原忠通です。忠通の肩書を覚えていますか? 「法性寺入道前関白太政大臣」です、つまり当代一の大貴族の家柄というのが慈円というお坊さんだったのです。

実のところ坊主といってもさまざまで、西行のように世を厭んで出家という人もいれば、慈円のように大寺院界というべき第二の公家社会で地位と生活の安定を確保するということも当たり前のことでした。
とするとどうでしょう、慈円の百人一首歌です。

「身のほどもわきまえず、辛いこの世を生きる人々を覆ってあげたいものだ、比叡山の山に住みはじめたばかりのこの墨染の袖を」

私たち凡夫が期待する、百人一首には際立って立派なお坊さんの歌が、なにやらそらぞらしい権力者のきれいごとのように聞こえてきませんか?
しかし私のこの軽薄な想像に反して当代の人、例えば後鳥羽院などに言わせるとこうです。

「大僧正は、おほやう西行がふりなり」
後鳥羽院御口伝

慈円はだいたい西行のようだ、こういうな評価なのです。
あくまでもこれは「歌風」に対する評価ではありますが、じつのところ慈円は心底から西行に憧れていて、みずからの人生の指針と仰いでいたふしがあるのです。晩年の西行は自由を極め、世俗に縛られた人間にとって生きる伝説であったのでしょう、多くの信奉者が現れました。慈円もこの熱烈のひとりで、西行にこのような歌を送っています。

「世をいとふしるしもなくて過ぎこしを君やあはれと三輪の山もと」(慈円)

また西行が世を去ると、その哀悼を交流のあった坊主歌人寂連と交わしています。
「君しるやその如月といひおきてことばにおへる人の後の世」(慈円)

西行の「その如月の望月のころ」の歌が当時すでに知れ渡っていたことがわかりますが、このように慈円は西行にとことん心酔していたのです。

百人一首歌に戻ると、これは伝教大師の歌の本歌取りでした。
「阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまえ」(伝教大師)

ご存知かと思いますが伝教大師こそ比叡山延暦寺を建立し、天台宗の開祖である最澄その人でした。
慈円は十一歳のころ出家したといいますが、若き慈円は大貴族のならいとしてではなく「阿耨多羅三藐三菩提(この上ない悟り)」を得んという気概を抱いて入山したに違いありません。

後見した九条家の擁護に躍起になり、「愚管抄」を著した老年の彼は分かりませんが、少なくともそこいらのお坊ちゃん僧正とは違って、慈円は本気で衆生を救おうという歌のままの気持ちを強く抱いていたと思います。でなければ天台座主に生涯四度も就くといった偉業は、家柄だけでなせるものではないでしょう。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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