【百人一首の物語】九十七番「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」(権中納言定家)

九十七番「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」(権中納言定家)

ついに御大の登場、藤原定家です。「新古今集」と「新勅撰集」のふたつの勅撰集の撰者であり、歌人にして正二位で権中納言の高みに昇った大人物、今に伝わる「源氏物語」「土佐日記」の書写や、自身の歌論、日記(明月記)など歴史的な著作も多く残しました。
そしてなによりこの「百人一首」を撰んだのが定家です。百人一首という朗然たるアンソロジーがなければ、和歌なんてものはとうに遺物となり忘れ去られていたことでしょう。

定家もまたこの時代の天才のひとりですが、天才と狂気はまさに紙一重だということが彼によって知られます。

「傍若無人」
「腹立の氣色あり」
「あまつさへ種々の過言、かへりて己が放逸を知らず」
後鳥羽院口伝

時の帝王たる後鳥羽院にこうも言わしめた、この一介の臣下たる人間が狂人でなくてなんでしょうか。
定家は自身の出世をなにより願うありふれた貴族ではありましたが、こと「歌」になると粘着し、執着し、信念をひたすら通そうとしました。これは相手が治天の君であってもそうだったのです。
「最勝四天王院名所御障子歌」における院と定家とのくだり※1や、日記に書きなぐった「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」などに狂人定家の姿をうかがい知ることができるでしょう。

では定家が己を貫き、一途に望んだ歌とはなんであったか。それはこの一文に明らかです。

「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿をねがひて、寛平以往の歌にならはば、おのづからよろしきこともなどか侍らざらむ」
近代秀歌

「寛平」とは宇多天皇の御代でありそれ以前ということ。俊成は「ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と宣言しましたが、定家はさらに上って「花山僧正、在原中将、素性、小町」らいわゆる六歌仙の歌に理想をみたのです。

定家の百人一首歌は、まさにこの到達点といえます。

「来ない人を待ち続ける松帆の浦の夕凪のころに焼く藻塩ではないが、わたしの身もずっと恋に焦がれている」

情景に寄せた抒情(恋)の歌、序詞と掛詞という難解な技巧を用いつつも、それが邪魔することなくむしろ作中主体のままならぬ思いをえぐるように浮かび上がらせる。詞と心とが見事に止揚した余情妖艶の世界。これぞまさに小野小町がはじめて到達した歌の極致、

「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」(小野小町)

定家は小町こそわが理想と仰ぎ、「来ぬ人を」でついに小町を越えてみせたのです。彼はこの珠玉の一首を、みずから撰んだ新勅撰集の自作十五首のひとつに加えました。つまりそれほどの一首であったのです。

定家はその思想、古典回帰を成し遂げたのかもしれませんが、反面、文学的に失ったものも少なくありませんでした。それは後鳥羽院歌壇、彼らが青春を捧げて鍛えあげた「新古今」という狂言綺語の世界です。詞で練り上げられた芸術の数々※2を、晩年の定家はなかったかのように見捨ててしまったのです。

その被害者の最たるが百人一首で、このおよそ四分の一(24首)が初代勅撰集である古今集歌で占められ、のみならずその歌風のほとんどが古今調という、古きを慕うだけの退屈な歌集となってしまいました。
もしこの百首に新古今というまた別の芸術の彩りがあったら、この歌集の魅力はいっそう増し、まさに和歌のアンソロジーとして確固たる文学的地位を得ていたことでしょう。

※1 定家は自信作を後鳥羽院が障子歌に撰入しなかったため、あろうことか院を誹謗した
「秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の杜の露の下草」(藤原定家)

※2 新古今における定家の代表歌
「春の夜の夢の浮き橋途絶えして峰にわかるる横雲の空」(藤原定家)
「梅の花匂ひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ」(藤原定家)
「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)
「白妙の袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく」(藤原定家)

(書き手:歌僧 内田圓学)

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