源実朝 ~甘えん坊将軍、鎌倉の海に吠える~

源実朝は若干12歳でその座についた鎌倉幕府の第三代征夷大将軍。
父は源頼朝、母は北条政子とまさに武人のサラブレッドのような人なのですが…

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「当代は蹴鞠をもって業と為し、武芸は廃るるに似たり、女性をもって宗となし、勇士はこれなきごとし」
吾妻鏡

と御家人(長沼宗政)に酷評されるありさま。それでも後年は政治への関与を強め、渡宋計画などをぶち上げたり(成功せず…)するのですが、為政者としての実績はほとんどありません。

じつのところ実朝は武人である以上に歌人でした。大都会である京の都にあこがれ続けた、鄙びた田舎の文学青年であったのです。

当時、政治の中心は鎌倉に移行しつつも、文化の中心はまだまだ京の都でした。まあ、発展途上の田舎の青年からしてみたら、権威は多少下がってもオシャレでハイソな大都会に憧れるというのはある意味ふつうのことですね。しかも実朝の場合、自分の家に金も権力もあるんですからなおさらです。

実朝はこの“ ハイソ ”を強引にも手に入れていきます。
例えば「ファーストレディ」。
ママに頼み込んで(…かどうかは知りませんが)、京の公卿である坊門信清の娘である信子を正室に迎え入れました。

さらに「キャリア」。
都会人としてスマートに決めるには、それ相応の「官位」というキャリアが必要です。実朝は末にはなんと27歳という若さで「右大臣」という高位に至りました。ちなみにこれ、武士が右大臣になった初例です。
→関連記事「和歌の入門教室 歌人と官位一覧表

そして「コーチ」。
実朝が最も憧れた京の文化、それが和歌です。しかし鎌倉には彼の眼鏡にかなう師(コーチ)はいません、でどうしたか? なんと、京の歌壇の第一人者「藤原定家」に通信講座という手段で教えを請うたのです。ちなみ藤原定家著の「近代秀歌」は、実朝のために書かれた歌論書です。

実朝がすごいのは、ただの夢見る甘えんボーイで終らなかったこと。師定家の教えと、鎌倉という土地ならではの独特の歌風があいまって、歴史的にも稀有な歌人として大成しました。

その結実が「金槐和歌集」。若干22歳の青年が編んだおそらく武人で初めてのこの家集は、後世の歌人たちに多くの影響を与え熱烈なファンを生みました。
賀茂真淵や明治の歌人、とくに正岡子規の実朝愛は熱狂的で知られます。

「実朝といふ人は(中略)とにかくに第一流の歌人と存候。(中略)実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。」
歌よみに与ふる書(正岡子規)

ただよく言われるように、実朝が「ますらおぶり」と評されるような勇壮な歌人である、というのはほとんど作られたイメージです。
「金槐集」を見渡せば古今集の類型歌が占め、あきらかな万葉風などたいしてないことに気づくでしょう。また実朝が歌の教えを請うたのが古今集に理想を求めた藤原定家であることを知れば、むしろ「たおやめぶり」の歌人といえるのです。

確かに百人一首歌の(「世の中は」)などには万葉の風を感じるのかもしれません。しかしこれさえも、古今集所収歌の本歌取りなのです。ですから実朝が理想的な万葉歌人だなんてのは新興の、もっといえば京の都に引け目を感じた関東の歌人の願望でしかありません。

では実朝の歌に確かに見える「おおらかさ」「素直さ」なんてのはどこからくるかと言えば、それこそ「東歌」にあるのだと思います。東歌は古今集に採られた歌でも万葉の雰囲気を強く残していますし、じつのところ「世の中は」も古今集の中の東歌の本歌取り※なのでした。

「陸奥はいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも」(よみ人知らず)

将軍たる実朝が和歌が興じていられたのは政治権力の実質は執権を握る北条氏にあり、自らは蚊帳の外に置かれていたからです。しかし彼はあくまでも武人の身、にもかかわらず実朝は熱狂的に和歌にのめり込んだ、なぜか?
初代頼朝の死後、二代目を継いだ実朝の兄、頼家は北条氏に暗殺されたといいます。もしかしたら実朝は「いつかは自分も…」と不信を募らせていたのではないでしょうか、だから一心不乱で狂信的なまでに歌を追い求めていった、現実から逃れるかのように…

というのも実朝はの歌は、おおらかな表現の裏に破滅的な感情が見え隠れしているのです。眼前の「鎌倉の海」に唸るように吠える激しい感情が。

その結末は? というとみなさまご承知のとおり、実朝は鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺されてしまいます。右大臣に就いた翌年の事です。これによって源氏将軍は三代であっけなく絶えてしまうのでした。

今回は「金槐和歌集」から、実朝が鎌倉の海にぶつけた歌を中心にご紹介しましょう。

源実朝の十首(「金槐和歌集」より)

(一)「かもめゐる 荒磯の洲崎 潮みちて 隠ろひゆけば まさるわか恋」(源実朝)
恋歌ですが、歌中に「かもめ」が出てきて、実朝ワールド全開です!

(二)「わたつ海の 中にむかひて いづる湯の 伊豆のお山と むべもいひけり」(源実朝)
「出づ」と「伊豆」をかけるなんて、東人ならではの新鮮な掛詞です。

(三)「箱根路を わが越えくれは 伊豆の海や 沖の小島に 波のよるみゆ」(源実朝)
島に波が寄せているのを見ている、という何のヒネリもない歌。しかしこの単純明快な叙景を臆することなく歌に出来るのが実朝の素晴らしさなのです。

(四)「宮柱 ふとしきたてて よろづ世に いまぞさかえむ 鎌倉の里」(源実朝)
関東には歌枕が少ないです。ですから関東在住の人にとっては和歌に親しむ機会が少ないです。しかし、我々には実朝が居ます! 鎌倉へ歌枕を見に行きましょう。

(五)「鶴岡 あふぎてみれば 嶺の松 こずゑはるかに 雪ぞつもれる」(源実朝)
実朝は鶴岡八幡宮で暗殺されてしまいます。馴染み深いこの鶴岡で。

(六)「世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」(源実朝)
歌の「かなし」は「心が惹かれる」という意味です。これを今の「悲しい」とすると、歌の意味が薄弱となってしまいます。とはいえ渚を漕いでゆく漁師の小舟に引き綱をつけて引くさまに惹かれて、この世の常なるを願うのは、実朝という人間の個性というよりほかならないでしょう。

(七)「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」(源実朝)
あなたを欺く心はありませんよ、と後鳥羽院への忠節を表わした歌です。ただ少しへりくだり過ぎてやしませんかね? ママに見られたら大目玉を喰らいそうです。

(八)「おほ海の 磯もとどろに よる波の われてくだけて さけて散るかも」(源実朝)
海を見て「割れて、砕けて、裂けて、散る」と詠む。この時実朝はどんな心境だったのでしょうか? 私には絶望しか感じられません(涙

(九)「聞きてしも 驚くべきに あらねども はかなき夢の 世にこそありけれ」(源実朝)
ここには無常の世を達観した実朝がいます。

(十)「いとほしや 見るに涙も とどまらず 親もなき子の 母を尋ぬる」(源実朝)
両親を亡くして道端で泣く子に心の底から同情を寄せる。それが鎌倉右大臣実朝なのです。

鶴岡八幡宮では、毎年実朝の誕生日である8月9日に「実朝祭」というお祭りを開催しています。俳句や短歌なども献上されるようなので、歌人実朝に触れられる絶好の機会、京都の歌枕に憧れを募らせるばかりの関東の和歌ファンはぜひ、鎌倉の実朝に会いに行きましょう。
そして、実朝のように素敵な和歌を詠みたい! という方はぜひ私たちの「歌塾」で学んでみてください。

→関連記事「北鎌倉の桜散策 ~実朝を探して~

(書き手:歌僧 内田圓学)

→一覧「一人十首の歌人列伝

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