やよ時雨もの思ふ袖のなかりせば木の葉の後に何を染めまし(慈円)

珍しい歌だ。「さあ時雨よ、物思いに紅涙で濡れる袖がなかったら、木の葉の後に何を染めるんだい?」。木の葉を赤く染める時雨、これを涙の隠喩として憂いをほのめかすのが習いであったが、今日の歌はその「袖」がないとしたらどうする?...

晴れ曇り時雨は定めなきものをふりはてぬるは我が身なりけり(道因)

「時雨に寄せる心」を続けるが、これまでの触れたら霧散するような繊細さが今日の歌には見えない。詠み人は道因、やはり男の詠みぶりであった。『晴れたり曇ったり時雨の空模様ははっきりしないが、俺のところだけはずっと降りまくってる...

折こそあれながめにかかる浮雲の袖もひとつにうち時雨つつ(二条院讃岐)

『長雨の雲が居座り続けて物思いに耽る私の袖も、時雨が降ったように濡れています』。詠み人は二条院讃岐、あまり知られていないが源頼政の娘だ。なぜ故に時雨は袖を濡らすのか? 四時の最後たる季節がもたらす悲哀、落葉に埋もれて訪れ...

ふりはへて人も問ひこぬ山里は時雨ばかりぞ過ぎがてにする(皇后宮肥後)

昨日、そして今日もであるが千載集あたりになると四季歌に込められた抒情というものが一層深くなってゆく。平安前中期の三代集歌人が去りゆく季節をほとんど形式的に惜しむのに対し、末期の歌人らは心の底から感情を寄せる、今日の肥後も...

まばらなる真木の板屋に音はして漏らぬ時雨や木の葉なるらむ(藤原俊成)

今日の歌には時雨ならぬ時雨が詠まれている。『隙間だらけの真木の板葺き屋根に時雨の音がする、しかし雨は漏ってこない』、なぜか? あえて言うもの野暮だが『時雨かと思ったのは木の葉が散りかかる音だった』のだ。詠み人は本当に落葉...

雨降れば笠取山のもみぢ葉は行きかふ人の袖さへぞ照る(壬生忠岑)

笠取山は宇治の歌枕であるが、標高も低く周囲の山に隠れて目立たない。ではなぜ歌に詠まれるかと言えば、理由は名前にこそある。『雨が降ると笠取山の紅葉の葉は、往来する人の袖の色までも照りまさる』。歌の解釈の前に、前提をお伝えし...

木枯らしに木の葉の落つる山里は涙さへこそ脆くなりぬれ(西行)

ゆく河の流れ、よどみに浮かぶ泡沫。無常を象徴する現象はいくらでもあろうが、その最たる事例が秋の木の葉ではなかろうか。『木枯らしで木の葉が次々と散ってゆく山里、私の涙も脆くなって止めどなく落ちてゆく』。詠み人は西行、春の頃...

いかばかり秋の名残を眺めまし今朝は木の葉に嵐ふかずは(源俊頼)

『秋の名残を深く惜しんで眺めただろうに。今朝、木の葉に嵐が吹かなければ』。昨日の宗于の呑気が罪であるほど、まるでオー・ヘンリー、今日の歌には儚さを感じる。いったいなぜ、木の葉一枚にこれほどの切迫感を込めるのか。たとえ秋は...

山里は冬ぞ寂しさまさりける人めも草もかれぬと思へば(源宗于)

昨日、一昨日とご紹介した立冬の歌、確かに冬に対する嫌悪感はあったが和歌らしい風情、自然への観入も十分感じられた。しかし今日の一首である、『山里は冬になると寂しさが極まるよね、なぜって人の出入りも草も「かれる」ってんだから...

秋のうちはあはれ知らせし風の音のはげしさ添ふる冬はきにけり(藤原教長)

秋を知らせる風は「はっと気づく」というような繊細なものであったが、冬の風はまったくそうでない。『秋の頃は深い情趣を感じさせた風の音が激しくなって、冬が来たんだなぁ』。ビュービュー叩き付けるような激しい風はまるで嵐、嘘のよ...

風の音に秋の夜ふかく寝覚して見果てぬ夢の名残をぞ思ふ(平忠度)

いわゆる「雑」の類であるが暮秋の心を深く感じる歌をご紹介しよう、「忠度集」から平忠度の一首である。『秋も暮れようとする夜、冷え冷えとする風の音に目が覚めて、未だ果たせぬ夢を思い病む』。詞書きには「閨冷夢驚」(閨の冷たさに...