目もかれず見つつ暮さむ白菊の花よりのちの花しなければ(伊勢大輔)

『飽きることなく見続けていよう、白菊の花より後に花はないのだから』。早春の「梅」に始まる和歌の花は、晩秋の「菊」で締めくくりとなる。和歌に詠まれる花において、白菊は唯一色褪せた様さえも愛でられる。それは変容する紫が美しい...

ももしきや我が九重の秋の菊こころのままに折て挿頭さむ(後醍醐院)

菊は四君子のひとつに数えられ、中国のみならず本朝でも格別に愛好された。重陽の節句では花を飾り、また花びらを浮かべた酒を飲んで邪気払いと長寿を祈願する。今日の歌もそんな風習を下地に詠まれたものだろう。ただ「挿頭す」という一...

ひさかたの雲の上にて見る菊は天つ星とぞあやまたれける(藤原敏行)

『雲の上に見る菊は、おっと夜空の星と間違えちゃった』、小学三年生でも詠めそうな歌である。詠み人は藤原敏行、前評判通り工夫がない。ただ経緯を知れば、同情の余地がないこともない。詞書にはこうある、「殿上許されざりける時に召し...

霜をまつ籬の菊の宵のまに置きまよふ色は山の端の月(後鳥羽院宮内卿)

「籬(まがき)の菊」は日本美術におけるひとつの定型であり、絵画や着物の柄の図案として好んで描かれた。また「菊に置く霜」も躬恒に倣った趣向で和歌における菊の王道的詠み方といえよう。しかし出来上がった歌からは全く新しい体験が...

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花(凡河内躬恒)

百人一首には撰者の審美眼を疑う歌も散見されるが、今日の一首は間違いなく凡河内躬恒の渾身の作品だ。『当て推量で手折ってみようか、初霜が置いて見分けがつかなくなった白菊の花よ』、霜がびっしりと付いていっそう際立つ白菊の美しさ...

明石潟うらぢ晴れゆく朝凪に霧に漕ぎいる海人の釣船(後鳥羽院)

源氏物語以後、須磨そして明石と言えば屛居の地としてイメージが決定的となり、歌にも詫びれた情景が多く詠まれるようになった。『明石潟の浦べの道から、朝凪の霧に漕ぎ入る漁師の釣り船が見える』、主観的な感情を全く廃して純写生とい...

ひとりぬる山鳥の尾のしだり尾に霜置きまよふ床の月影(藤原定家)

新古今的シュルレアリスムの極点がこの歌かもしれない。作家活動のクライマックスを迎えた定家が「千五百番歌合」に詠進し、新古今に採られた一首である。『つがいと離れて独り寝る山鳥の長くしだれる尾に、霜が置いているように床に月影...

千たび打つ砧の音に夢醒めてもの思ふ袖の露ぞ砕くる(式子内親王)

式子内親王が詠んだ「擣衣の心」をご紹介しよう。『何度も繰り返し打つ砧の音に夢から醒めて、もの思いに濡れた袖の涙も砕ける』、昨日の宮内卿の歌と同類の趣向、やはり砧の音は女性にとって憂いの象徴であるようだ。しかし今日の方がい...

まどろまで眺めよとてのすさびかな麻の狭衣月に打つ声(後鳥羽院宮内卿)

『まどろみから覚め眺めろと大きくなるのか、月に届かんとする麻の衣を打つ音』。若い感性には砧の風情は届かなかったのだろうか? 今日の歌では衣を打つ音がまどろみを許さぬ不快な目覚ましのようにも受け取れる。 しかし昨日もそうで...