初瀬山けふを限りとながめつつ入相の鐘に秋ぞ暮ぬる(源実朝)
『今日を最後と眺める初瀬山の夕暮れの鐘の音、ああ秋もついに終わりだなぁ』。初瀬山は奈良県桜井市の歌枕で、現在は初瀬(はせ)と呼ばれる。聞こえる鐘の音は長谷寺のもの、観音さまを祀る霊場として古くから知られ、源氏物語など文学...
『今日を最後と眺める初瀬山の夕暮れの鐘の音、ああ秋もついに終わりだなぁ』。初瀬山は奈良県桜井市の歌枕で、現在は初瀬(はせ)と呼ばれる。聞こえる鐘の音は長谷寺のもの、観音さまを祀る霊場として古くから知られ、源氏物語など文学...
「駒」とは「子馬」のことである、決して将棋や双六の歌ではない。ところでこの「駒」、詠まれる季節は秋である、なぜか? 実は歌にも「望月」が見えるように八月の望月のころ、諸国から献上された馬を鑑賞するという宮廷行事があったの...
『飽きることなく見続けていよう、白菊の花より後に花はないのだから』。早春の「梅」に始まる和歌の花は、晩秋の「菊」で締めくくりとなる。和歌に詠まれる花において、白菊は唯一色褪せた様さえも愛でられる。それは変容する紫が美しい...
菊は四君子のひとつに数えられ、中国のみならず本朝でも格別に愛好された。重陽の節句では花を飾り、また花びらを浮かべた酒を飲んで邪気払いと長寿を祈願する。今日の歌もそんな風習を下地に詠まれたものだろう。ただ「挿頭す」という一...
『雲の上に見る菊は、おっと夜空の星と間違えちゃった』、小学三年生でも詠めそうな歌である。詠み人は藤原敏行、前評判通り工夫がない。ただ経緯を知れば、同情の余地がないこともない。詞書にはこうある、「殿上許されざりける時に召し...
「籬(まがき)の菊」は日本美術におけるひとつの定型であり、絵画や着物の柄の図案として好んで描かれた。また「菊に置く霜」も躬恒に倣った趣向で和歌における菊の王道的詠み方といえよう。しかし出来上がった歌からは全く新しい体験が...
「秋は夕暮れ」。枕草子にもこの一文があるが、このような美的態度は少なくとも古今集には見られない。おそらく末法思想が盛んになり、西方浄土への憧憬が強まりだした平安中期頃に転機があったのだろう。今日の歌は「秋は夕暮れ」が一般...
百人一首には撰者の審美眼を疑う歌も散見されるが、今日の一首は間違いなく凡河内躬恒の渾身の作品だ。『当て推量で手折ってみようか、初霜が置いて見分けがつかなくなった白菊の花よ』、霜がびっしりと付いていっそう際立つ白菊の美しさ...
源氏物語以後、須磨そして明石と言えば屛居の地としてイメージが決定的となり、歌にも詫びれた情景が多く詠まれるようになった。『明石潟の浦べの道から、朝凪の霧に漕ぎ入る漁師の釣り船が見える』、主観的な感情を全く廃して純写生とい...
今日の歌はいかにも三代集らしいユーモラスな歌だ。梓弓は「入佐山」の枕詞、入佐山には「射る」が掛詞になっており、霧が「当たる」の縁語を導く。ちなみに入佐山という歌枕は兵庫県豊岡市の此隅山と伝わるが定かでない。さてこれを適役...
新古今的シュルレアリスムの極点がこの歌かもしれない。作家活動のクライマックスを迎えた定家が「千五百番歌合」に詠進し、新古今に採られた一首である。『つがいと離れて独り寝る山鳥の長くしだれる尾に、霜が置いているように床に月影...
式子内親王が詠んだ「擣衣の心」をご紹介しよう。『何度も繰り返し打つ砧の音に夢から醒めて、もの思いに濡れた袖の涙も砕ける』、昨日の宮内卿の歌と同類の趣向、やはり砧の音は女性にとって憂いの象徴であるようだ。しかし今日の方がい...
『まどろみから覚め眺めろと大きくなるのか、月に届かんとする麻の衣を打つ音』。若い感性には砧の風情は届かなかったのだろうか? 今日の歌では衣を打つ音がまどろみを許さぬ不快な目覚ましのようにも受け取れる。 しかし昨日もそうで...
アイロンという製品がなかった時代、洗濯物のシワを伸ばすにはどうしたか? 棒や槌で叩いたのである。これを「砧(きぬた)」といい、古典和歌ではその情景が多く詠まれた。いや棒を詠んだのではない、砧で衣を打つ音、それが秋の夜長に...