過ぎぬれば我が身の老いとなるものをなにゆゑ明日の春を待つらむ(肥後)

年の暮れを包み込む暗黒、頭をもたげる憂鬱の正体それは「老い」だ。『過ぎてしまえば、またひとつ老いを重ねることになるものを、何が嬉しくて明日の春を待つのだろうか』。春、清々しき花々の世界。年という頂きを越え行けば、その懐か...

うばたまのこの夜な明けそしばしばもまたふる年の内ぞと思はむ(源実朝)

いよいよ年が明ける、待ち望んだ春は目の前だ。しかしである、人間の思考はそう単純でないらしい。綻ばんばかりの花を目の前にして、一度伸ばした手を引っ込めてしまう。『この夜よどうか明けないでくれ! 僅かでもいい、永遠の別れとな...

もののふの八十宇治川をゆく水の流れて早き年の暮れかな(源実朝)

源実朝による歳暮の念。『宇治川を流れる水のように、時は流れて早くも年の暮れとなったものだ』と、極めてシンプルな感想だ。ところで「もののふ(物部)」とは「朝廷に仕える文武の官人」という意味であるから、「もののふの八十うじ(...

木の葉なきむなしき枝に年暮れてまた芽ぐむべき春ぞ近づく(京極為兼)

『木々の葉はすべて散り果ててしまった。しかし案ずるな、年の瀬を迎え新たなる芽吹きの春はもう目の前にある』。一年を惜しみつつも春への期待感はいよいよ醸成され、だれもがはやる気持ちを抑えられない。しかしこの一月(睦月)に“年...

降る雪の雨になりゆく下消えに音こそまされ軒の玉水(藤原為家)

一転して今日の歌は素晴らしい、藤原定家の嫡男為家である。『降る雪が雨に変わってゆく。屋根の雪も下から溶けはじめて、軒の雨だれの音がほの強くなってきた』。雪は次第に姿を移しつつある、雨となり屋根からも落ちはじめた。むろん春...

梅か枝に降りつむ雪はひととせに再び咲ける花かとぞ見る(藤原公任)

その名が期待感を煽るが今日も無念、凡作に沈んでしまった… 藤原公任である。「雪」を「花」とする見立ては悪くない、いや確かに平凡の極みなのだが、このルーチンこそが和歌であることはもうご承知だろう。問題のひとつは歌の「調子」...

梅の香の降りおける雪にまがひせは誰かことごと分きて折らまし(紀貫之)

今日あたり二十四節季では「大寒」の時分だろう。寒さが最も厳しくなるころとされるが、実のところ春(立春)はもう目の前である。詠み人は紀貫之、一昨日の歌は雪を花と見る妄想であったが、今日のは早咲きの梅が確かに綻んでいる。『梅...

雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきて折らまし(紀友則)

このような歌を「呆あきれ返つた無趣味」と蔑もう、明治の自称革新的な歌人たちは。そのまま取ると『木々に雪が降って、梅の花と見分けがつかない』という趣向だが、狙いは「木」と「毎(ごと)」つまり偏と旁を合わせて「梅」が咲くとい...

雪ふれば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける(紀貫之)

さて、今日の歌ではまたもや雪が降っている。雪歌は一通り終えたのではと思うかもしれないが、今日よりの雪は以前のそれではない。『草や木々が冬ごもりしている折、雪が降って春も知らない花が咲いた!』。春を慕うばかり、詠み人の目に...

星清き夜半の薄雪そら晴れて吹きとほす風を梢にぞきく(伏見院)

京極派の歌は今でも新鮮な聞き心地がする、それは描いた風景もさることながら用いた単語に由る。昨日の「三日月」しかり今日の「星」もその一つだ。これまた驚かれるかもしれないが京極派が現れる以前、和歌に詠まれる天体といえば「月」...