春くればたのむの雁もいまはとて帰る雲ぢに思ひ立つなり(源俊頼)

昨日の流れで今日は金葉集の選者、源俊頼の一首をご紹介しよう。『春になったので、たのも(田の面)の雁が今まさに帰らんと、雲の旅路に飛び立ってゆく』。雁は秋の鳥だが、春に詠まれる場合「帰雁」、つまり故郷である北国へ帰る姿が詠...

風吹けば柳の糸のかたよりになびくにつけて過ぐる春かな(白河院)

万葉集では、例えば梅やうぐいすなどと取り合わせるなど、多様な詠まれ方がされた柳だが、貫之がそれを糸に見立てて以降、柳は必ずそう詠まれるものとなった。今日の歌もその一つである。詠み人はなんと白河院。「賀茂河の水、双六の賽、...

青柳の糸よりかくる春しもぞみだれて花のほころびにける(紀貫之)

およそ勅撰和歌集では怒涛の梅の歌群が過ぎたあと、次の桜まで小休止が入る。そこでさらりと詠まれるひとつが、今日の「柳」だ。柳といえば雲竜柳や猫柳もあるが、和歌に詠まれるのは枝垂柳である。これを「糸」に見立て、「よる(撚る)...

春の苑くれないにほふ桃の花した照る道にいで立つ乙女(大伴家持)

「桃の花」。衝撃的な言葉である。特に私のような勅撰集を新古今、古今と下り、万葉へ至った者にはショックが大きい。歴代の勅撰集において、桃なんてものはまず詠まれない。漢詩人はこれに惜しみない愛情を寄せたが、本朝歌人はその対象...

ながめつる今日はむかしになりぬとも軒端の梅はわれを忘るな(式子内親王)

和歌(短歌)という詩形は三十一文字、かつ詠むべき題や言葉は自主規制を設けており、現代のそれが目指す自由とは真逆の不自由極まりない表現である。そこにいかなる価値があるか? という問いは別の議論として、こういうわけだから和歌...

梅の花あかぬ色香かもむかしにて同じかたみの春の夜の月(俊成卿女)

この歌には詩歌の醍醐味が溢れている。何かと言えば、解釈の余地が鑑賞者にほとんど委ねられているのだ。『梅の花のまだ満足もできない色と香り、それはもう昔となって、同じように思い出が残る春の夜の月』。なんだろう、正直なところよ...

梅が香を袖にうつしてとどめては春はすぐともかたみならまし(よみ人知らず)

花は散る、春はゆく。それでも花を、春を留めたい。思いはわかる、だがそんなことができようか? ある歌人は答えた、「できる!」と。『香を残すのだ、わが袖に梅の香を。さすれば春は過ぎても、思い出として残しておくことができる。た...

くるとあくとめかれぬものを梅花いつの人まにうつろひぬらむ(紀貫之)

四季はうつろふ。咲いた花は散る、当然のことわりである。でも、いやだからこそ花を惜しむ心はいっそう燃えるのだ。暮れても明けても、目を離さず見ていた梅の花。作者は鑑賞ではなく監視の域に達しているようだ…、にもかかわらず! 花...

峰の霞ふもとの草のうすみどり野山をかけて春めきにけり(永福門院)

京極派の歌はつとめて明るい、そして分かりやすい。『山の峰には霞がかかり、麓には薄緑の若葉が萌えだして、野山いっぱい春めいてきた!』。思わずインスタに投稿したくなるような、誰もが共感できる美しい景色、これが京極派という新風...

照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものぞなき(大江千里)

新古今がなかったら、日本の四季はもっと単調だったかもしれない。後鳥羽院は秋ではなく春の夕べを発見し、定家は同じくおぼろ月に情趣を得た。 『はっきりしない春のおぼろ月夜は最高だ!』、白楽天の「不明不暗朧朧月」をほぼ直訳した...

酒杯に梅の花うかべ思ふどち飲みてののちは散りぬともよし(大伴坂上郎女)

新古今集が好きな人は万葉集も好むが、万葉集が好きな人はたいてい新古今を相手にしない。私の思い込みかもしれないが。さて、ひとえに和歌と言っても、当然ながらさまざまな歌風・表現がある。『花見だ花見、酒もってこんか~い! 死ぬ...