壊すべき古典を、あなたは持っているか?

古典そして伝統とは何か? それは古人によって築かれた原則である。
人間はこれを壊しては創り直してきたが、この爪痕を文化という。
こと日本において、文化がドラスティックに刷新され続けたのが「詩歌」である。

プリミティブな「万葉歌」、大和人としての意識に目覚めた「古今歌」、耽美を極めた「新古今歌」、滑稽を旨とした「俳諧連歌」、生活に美を見出した「蕉風俳諧」そして「写生歌」をへて個人主義偏重の「現代短歌」に至る。
詩歌変遷の歴史は、そのまま日本文化の歴史といって過言ではない。詩歌は絶えず日本文化の中心であり、ここで紡がれた物語が書画、芸事などに展開していったのだ。

しかし今、果たして文化の中心にこれがあるだろうか? 私にはそうは思えない。
俳句や短歌は趣味人の遊びとしてはあるが、かつての輝きは失せ、はるか遠い場所で沈みゆくように見える。
いやそもそも、現代の日本文化に中心になどあるのだろうか? そしてそれは革新があるのか?
答えは否だ。そしてその理由を述べるのなら、日本文化の原動力たる詩歌が動かないから、私はそう考える。

では詩歌はなぜ動かない?
それは良くも悪くも古典がなくなったからである。
いつの時代も古典はつまらないものとして確固たる地位にあった。定家も芭蕉も子規も、これを否定して革新を得てきたのだ。
しかし! 今はその壊すべき古典がない。だから現代の詩歌、例えば短歌などは徒手空拳、テーマもないまま自分語りに終始する。

私は熱望する。日本文化よ面白くなれ!
それにはまず詩歌だ。そしてお分かり頂けただろう、詩歌を楽しむためにはなにより古典が必要なのだ。それが古典和歌であり、つまるところ「万葉集」であり初代勅撰集「古今和歌集」なのである。

定家も芭蕉も子規もそして塚本邦雄も、みな古典和歌を消化して独創的な作品を顕した。
寄り添うのか、踏み潰すのか。古典をどう料理するかは自分次第。まずは日本文化のフィールドに立つために、つまらない古典和歌に親しんでみようじゃないか。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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