入日さす峰の梢に鳴く蝉の声を残して暮るる山もと(二条為世)

蝉は恋歌で詠まれこそすれ、四季歌で詠まれることはほとんどない。それもそうだろう、ミンミンゼミにアブラゼミ、暑さを掻き立てるあの大音量が風雅にそぐうとは到底思えない。とはいえ今日のような歌もある。『夕日が差し込む峰の梢で鳴く蝉、その声をほのかに残して、山のふもとは日が落ちてゆく』。ご想像のとおり、ここで登場する蝉は蜩(ひぐらし)だ。カナカナカナ、山々に響き渡る優しい音色は夏の夕暮れを印象的に染める。詠み人の二条為世は二条派の宗匠であるが、ほとんど京極派好みの歌に仕上がっている。

(日めくりめく一首)

空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらの懐かしきかな(光源氏)

空蝉(蝉の抜け殻)というモチーフは好んで恋の場面に用いられた。昨日のケースでは魂が抜け出た無気力状態に譬えられていたが、今日は身代わりのまさに抜け殻として使われている。ご存じであろう、源氏物語の第三帖空蝉だ。世に言う「雨夜の品定め」によって、ついに発情期を迎えた光源氏。手始めに中流の女に手を掛ける、しかし女は靡かない! 強引に夜這を仕掛けるが、女は薄衣を残して逃げていった。歌では「ひとがら(人柄)」に「殻」を掛け、また「木のもと」は「蝉」の縁語を詠む。さすが稀代の貴公子らしく才知が働くが、恋の初戦は惨敗。また会いたいなぁと未練を残しつつ、女の匂いが染み込んだ衣をクンクン嗅いで自分を慰める。光源氏という伝説のプレイボーイは実のところ相当にカッコ悪い。

(日めくりめく一首)

【和歌マニア(第85回)】★和歌で星よみ★ 第7回「蠍座」

ろっこが十二星座にピッタリの歌人を月イチで紹介する和歌で星よみ! 今回は蠍座です。嫉妬深くて情念が強い!? といえばやはりこの人、藤原道綱母でしょう。彼女が記した蜻蛉日記は、夫兼家への嫉妬で溢れています。今回はその中でも情念が詰まった強烈な歌とエピソードをご紹介します。
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うちはへて音を泣きくらす空蝉のむなしき恋も我はするかな(よみ人知らず)

心身二元論をご存じだろうか? 「我思う、ゆえに我あり」の文句で知られる17世紀の哲学者ルネ・デカルトが唱えたとされるが、要するに心と体はそれそれ独立した存在であるという考えだ。ちなみに二元論を西洋的、一元論を東洋的とする論もあるが、私は意に介さない。
さて、それでいくと今日の歌などは二元論の走りかもしれない。『ずっと泣きじゃくっている。なんてむなしい恋を、私はしているんだろう』。適訳はこうだが、ポイントは「むなしき」に係る枕詞「空蝉(うつせみ)」だ。空蝉とは“蝉の抜殻”のことであって、体から魂が抜け出てしまい気力がない様を暗喩する。これは紛うことなき二元論、日本人は図らずも10世紀には心身二元論を唱えていたのだ! と思わないでもない。

(日めくりめく一首)

夕立ちのまだ晴れやらぬ雲間よりおなじ空ともみえぬ月かな(俊恵)

『夕立の後のまだすっきり晴れていない雲の間から、同じ空にあると思えない明るい月が見える』。詞書には「雨後月明といへる心をよめる」とあり、題詠だとわかる。とすると、なるほど題をなぞっただけの歌ではないか。しかしそれでも見どころはある、四句「おなじ空」だ。この一文で雨後に現れた月の明るさは際立ち、題臭をも霧散して純粋体験の感動が淡く伝わってくる。詠み人は俊恵法師、その弟子鴨長明が記した「無名抄」には俊成との論争が載る。俊恵は御子左家のような大立ち回りの歌をよしとせず、抒情をほのかに託すことを旨とした。

(日めくりめく一首)

月や出づる星の光の変わるかな涼しき風の夕闇の空(伏見院)

昨日は良経の写生歌をご紹介したが、とはいえ彼は新古今の人である。そこでいくと純写生歌の美を明確に意識した玉葉の旗手伏見院は、やはりそのジャンルの深淵に達している。まずモチーフの新しさだ、和歌で詠まれる天体はきまって「月」であり、八代集を見渡しても「星」なんてのを詠んだ形跡は乏しい。しかし伏見院はそれを選び、遅れて昇ってきた月によって色移りした瞬間を捉え、あまつさえ辺りに吹き流れる涼しい風を感じた。もはや歌は理知では詠めないものとなった! 五感を澄まし自然と合一できる人間だけが、感じたままを描写できる精神の写像に代わったのだ。

(日めくりめく一首)

夕立ちの風にわかれてゆく雲に遅れてのぼる山の端の月(藤原良経)

風雅集に採られた良経の写生歌、例によって適役は不要だ。夕日と月が交換する、眩い瞬間を切り取ったフォトジェニックな一首である。新古今であれば「風に分かれる雲」や「遅れておぼる月」といった前景化されたモチーフの裏に必ず別の思想が投げ込まれていたが、玉葉風雅の純写生歌にはそれがない。確かに当時は新しい発明であったろうが、どうしても物足りなさが残る。特に日没前後の風景は「マジックアワー」「ブルーアワー」といって素人写真家でもまさに魔法的な芸術写真が撮れてしまう。これでは歌の審美もつけられぬというものだ。

(日めくりめく一首)

庭の面は月漏らぬまでなりにけり梢に夏の影しげりつつ(白河院)

白河院というと独断専行、非情な独裁者というイメージが強いかもしれないが、今日の歌など見ると印象もまた変わってこよう。『庭の表面は月の光が漏らないまでになった。木枝に夏の葉が繁りに繁って』。見どころは「梢に夏の影」、なんとも麗しい言葉ではなかろうか。さり気ない表現だが人柄というものは案外こういう些末に滲み出る。
ところで和歌の月と言えば「秋のもの」と固定化していないだろうか? 確かに古今集ではその傾向が著しい。しかし考えてみてほしい、月なんてのは毎月決まってお目に掛かれるものだ。であるから今日の歌が採られた新古今集には春夏秋冬、折々の月が詠まれている。その詠み分けの腐心を、ぜひ鑑賞してみてほしい。

(日めくりめく一首)

待つほどに夏の夜いたくふけぬれば惜しみもあへぬ山の端の月(曾禰好忠)

もし百人一首歌の人気アンケートを取ったならば、どの歌がナンバー1になるだろう? 個人的には第四十六番、曾禰好忠の恋歌※ あたりが本命だと思う。ちなみに曾禰好忠だが、ギャップ萌え歌人であれば断トツでナンバー1だ。出自は不明で官位は六位、「大鏡」には円融上皇の御遊に招かれもせず参加し、無残にもつまみ出されたという恥ずかしいエピソードが残る。これに聞くかぎり相当卑賤の人である。しかし! 歌はいい、それも恋歌が素晴らしいのだ。
今日の歌は「夏部」に収まるが、恋の匂いが強い。『いくら待てども、人は来ぬまま夜は更けゆく。山の端の月のいっそう惜しまれることよ』。好忠の歌に心動かされるのは、題詠ではなく自身の経験が隈なく込められているからだろう。

※「由良の戸をわたる舟人梶をたえ行方もしらぬ恋の道かな」(曾禰好忠)

(日めくりめく一首)

軒白き月のひかりに山影の闇を慕いてゆく蛍かな(後鳥羽院宮内卿)

「白々とした月明かり」と「山影の深い闇」が競う、おぼろなる幻想の夜。蛍は闇を選び、その中を気ままに遊んでみせる。「マティス亡きあと、シャガールのみが色が何であるかを理解している最後の絵描きだった。」ピカソが残した有名な言葉だが、これで言うと式子内親王と宮内卿のみが、歌で描く色が何であるかを理解していた唯一かもしれない。例えば柳と桜など、色を対比した歌はいくらでもある。宮内卿が抜きん出ているのは情景の再生力だ。今日の歌を見よ、結句まで一気に歌い上げたなだらかな声調。聴くものは一刷毛で眼前に幻を見る、そんな体験をするだろう。

(日めくりめく一首)

→「ろっこの和歌Bar(7月の夜会)」7/24(水)19:30~22:00