平安の三大歌合戦!(寛平后宮歌合、天徳内裏歌合、六百番歌合)

国民的バンド、サザンオールスターズの熱唱で幕を閉じた第69回NHK紅白歌合戦。
大みそか恒例の番組も、今回は平成最後ということで例年以上の盛り上がりを見せました。

さてこの歌合戦、平安貴族たちも負けず劣らず熱中していました。
正しくは「歌合せ」といい、「紅白」ではなく「左右」に分かれて歌つまり「和歌」の優劣を競い合ったのです。
現代の歌合戦はエンターテイメントの要素が強いですが、平安の歌合戦は歌人の意地を賭けた真剣勝負! 下手をすれば死人が出ると言われるほどの白熱ぶりです。

今回は平安の歌合戦から、私が特に注目する三大歌合せをご紹介しましょう。

その一、「寛平后宮歌合」

寛平とは宇多天皇の御代、その母である班子女王の宮で開催された歌合わせです。
西暦にして893年、「新撰万葉集」の撰歌を目的として開かれたとされます。

新撰万葉集は名こそ「万葉集」とありますが、単純にこれをなぞったものではありません。あらかじめ春夏秋冬と恋の題を設置し、それに万葉仮名で記した和歌とその漢詩訳を添えるという、いわば和漢の橋渡しを企てたものであったのです。

寛平后宮歌合は初代勅撰和歌集である「古今和歌集」の成立にも大きな影響を与えました。
古今集の全歌1100首のうち、なんと寛平后宮歌合出処の歌が六十首以上も採られているのです。なにより古今集の骨格をなし、以後の勅撰集にも踏襲される二大部立て(四季・恋)は寛平后宮歌合(新撰万葉集)に倣ったものでした。
日本が「国風文化」に大きく踏み込むきっかけとなった金字塔、これこそが寛平后宮歌合なのです。

ちなみに歌合せの出演者(詠み人)は紀貫之、紀友則、壬生忠岑、藤原興風、大江千里……
当時は売れない歌人だったかもしれませんが、私たちから見れば、平安の歌合戦はその初期からオールスターズによる共演でありました。

その二、「天徳内裏歌合」

時代が下るにつれ、歌合せのスケールはどんどん大きくなっていきます。
天徳内裏歌合は960年、村上天皇によって開催されました。
村上天皇といえば後撰和歌集を編纂させた人物、もちろん歌合せに寄せる思いも並々ならぬものがありました。
歌題は春・夏から12題(霞、鶯×2、柳、桜×3、山吹、藤花、暮春、初夏、郭公×2、卯花、夏草、恋×5)と細分化、調度品や音楽にもこだわったと言います。
内輪のイベントが宮中をあげた壮大なエンターテイメントに成長した歌合せ。それに伴ってか、歌合せは単なる余興から真剣勝負の場になります。それはまさに歌合戦!

有名なエピソードをご紹介しましょう。
「忍ぶ恋」を題に、二人の歌人が対決しました。左の壬生忠見と右の平兼盛です。
忠見といえば古今集の撰者のひとり壬生忠岑を父に持つ歌人の血統、一方の兼盛も自身の歌集「兼盛集」を成すほどの手練れ。

左「恋すてふ わが名はまだき たちにけり ひと知しれずこそ 思ひそめしか」(壬生忠見)
右「忍ぶれど いろにいでにけり わが恋は ものや思ふと ひとの問ふまで」(平兼盛)

それぞれ百人一首にも採られたこの名歌で、両者は激突しました!
その結果は、、、 いずれも甲乙つけがたく、判者(藤原実頼)は持(引き分け)にしようとしました。
しかし、天皇は勝敗を決めるように催促、実頼は窮しますが天皇のある言葉を耳にします。
「しのぶれど」
この一言によって兼盛の勝利が確定したのでした。
負けた壬生忠見、彼は人生を悲観し食事も喉を通らないありさま、そのまま憤死したといいます。
少々誇張を含んだ逸話かもしれませんが、当時の歌合せというものの雰囲気をうかがい知ることができます。

その三、「六百番歌合」

数々の歌合せの中でも伝説的に語られるものがあります、それが六百番歌合です。
六百番歌合は藤原良経によって1192年に開催されました。

良経といえば百人一首にも「後京極摂政前太政大臣」で歌が採られ、和歌や漢詩にも優れた教養人でした。とはいえ臣下主催による歌合せです、そこでいかほどの盛り上がりがあったのか?
まず六百番という規模自体が前代未聞であったわけですが、最大の見どころは歌道の名家「六条家」と新興の「御子左家」という、当代歌壇を代表する二家による全面対決です。

六条家(六条藤家)といえば二代目の藤原顕輔は第六代勅撰集「詞花和歌集」の編纂を担い、三代目の清輔は「続詞花和歌集」の編纂や歴史的な歌学書「袋草紙」を残すなど当代花壇の筆頭というべき由緒ある歌家。
一方の御子左家、当主俊成は第七代勅撰集「千載和歌集」を編纂、その子定家も徐々に頭角を現しつつあった、新進気鋭の歌家でありました。
六百番歌合は均等ではありませんがこの両家が左右に分かれ、いわば全面戦争というような争いを繰り広げたのです。

当然、評定は互いに譲りません。
「井蛙抄」にはこんな逸話が残されています。

寂蓮、顕昭は毎日に参りていさかひありけり。
顕昭はひじりにて独鈷を持寂蓮は鎌首をも立てていさかひけり。
殿中の女房、例の独鈷鎌首と名付けられけり。
「井蛙抄」(頓阿)

有名な「独鈷鎌首」のエピソードです。
御子左家の寂蓮、六条家の顕昭による白熱のバトルは、周りの女房たちはドン引きさせるほど。
ちなみに顕昭の執念はすさまじく、評定後さらに「六百番陳情」という反論の書を提出しています。

ただ実際の勝敗ですが、僅かながら六条家の勝ちが優っていたようです。
実は六百番歌合の判者は誰あろう、御子左家の藤原俊成だったのですが、遺恨を残さないようむしろ六条家に花を持たせたのです。好々爺の印象がある俊成ですがなんのなんの、その実老獪な戦略家だったのですね。
そして判者俊成といえば「源氏見ざる歌詠みは遺恨ノ事也」! ですよね。

この名判詞が出たのが、「枯野」題のこちらの番。
左「見し秋を 何に残さむ 草の原 ひとつに変わる 野辺の気色に」(女房=藤原良経)
右「霜枯れの 野辺のあはれを 見ぬ人や 秋の色には 心そめけむ」(藤原隆信)

右方が左歌の「草の原」対して難を示したのが、俊成の逆鱗に触れました。

左、何に残さん草の原といへる、艶にこそ侍めれ。右ノ方人、草の原、難申之条、尤うたゝあるにや。紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝也。其ノ上、花の宴の巻は殊に艶なる物也。
源氏見ざる歌詠みは遺恨ノ事也。
右、心詞悪しくは見えざるにや。但、常の体なるべし。左ノ歌、勝と申べし。

ちなみに「花の宴」は源氏物語の第八帖、源氏と朧月夜が出会う妖艶なシーンが印象的です。
「憂き身世に やがて消えなば 尋ねても 草の原をば 問はじとや思ふ」(朧月夜)

俊成はこの出典を根拠に、「源氏物語にもあるだろうがぁ!!」と右方を一喝したのです。
ちなみに右の藤原隆信は御子左家の人間、俊成にとっては家同士の争いより、歌詠みの心こそが大事だったのですね。

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さて、このように代表的な歌合せを挙げてみると、これは優美な貴族の遊びというより、真剣勝負のスポーツに近かったのかもしれません。
事実、競馬や相撲、蹴鞠など大のスポーツ観戦好きだった後鳥羽院は、「千五百番歌合」という和歌史上最大規模の歌合せを催しています。

さて、現在も年頭に催される宮中の「歌会始の儀」、これがもしガチンコ勝負の歌合せだったら…
国民の和歌へ対する関心は、もう少し高まっていたかもしれませんね。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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