「歌よみに与ふる書」を読み解く。そしてますます子規を好きになる。

何を隠そう、私は正岡子規の大ファンです。
子規といえば俳句雑誌「ホトトギス」や短歌結社「根岸短歌会」を起こし、近代日本の詩歌文芸の礎を築いた偉大なる俳人、歌人として知られています。

作品は知らなくても、坊主で横顔の肖像写真はきっと誰もが見たことがありますよね? あの無愛想な写真からは一見近づきがたい印象も受けるのですが、最初に彼を知ったのが「坂の上の雲」(司馬遼太郎)で描かれる愛嬌たっぷりの「のぼさん」であったため、私は自然と子規に愛着を抱くようになりました。

正岡子規は多くの歌を残しましたが、実のところ私は歌よりも彼のエッセイや批評の方が好きです。青春時代をイキイキとつづった「筆まかせ抄」や、臥してなお文学に情熱を絞る「病床六尺」などは何度も読み返しても飽きません。
中でも傑作なのが、今回取り上げる「歌よみに与ふる書」です。

その内容はというと、新聞の連載10回にわたって「古典和歌をボロクソにこき下ろす」というものです。
もちろん私は“古典和歌を愛して止まない人間”ではあるのですが、そんな私にも「歌よみに与ふる書」は爽快で大好きな一冊です。

ということで今回は「歌よみに与ふる書」の魅力をご紹介しましょう。
まずは冒頭の一文から、

「仰のごとく近来和歌は一向に振ひ申さず候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ申さず候。」
歌よみに与ふる書

口火はいきなり切られました。
子規にとって過去の勅撰集なんては全く価値がなく、和歌といえば唯一「万葉集」であり、その後の歌人は「源実朝」ただ一人であったのです。この認識が揺らぐことは一切ありません。

「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。」
再び歌よみに与ふる書

「歌よみに与ふる書」といえばこれ、という一文です。
明治17年、すでに伝統的な和歌文化は衰退の一途を辿っていました。そこに決定的なストレートパンチをお見舞いしたのが本書であったわけです。

「三年の恋一朝にさめて見れば、あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。」
再び歌よみに与ふる書

一方で、子規もかつては古今集に惚れ込んだことがあったと告白しています。
好きであればあるほど、嫌いになったときの反動は大きいものですが、いったいなぜかつての恋人にこれほど嫌悪を抱くようになったのでしょう。

「『去年とやいはん今年とやいはん』といふ歌が出て来る、実に呆れ返つた無趣味の歌に有之候。日本人と外国人との合の子こを日本人とや申さん外国人とや申さんとしやれたると同じ事にて、しやれにもならぬつまらぬ歌に候。この外の歌とても大同小異にて駄洒落か理窟っぽい者のみに有之候。」
再び歌よみに与ふる書

古1「年のうちに 春は来にけり 一年を 去年とやいはん 今年とやいはん」(在原元方)
これは古今集の第一番歌、時列を重んじる古今集ではこのいわゆる“年内立春”の歌が一番目に採られました。
四季の移ろいを重んじる選者ら平安歌人の美的思想には一切触れず、駄洒落か理屈の歌だと一蹴です。

また百人一首にも採られた躬恒のこの歌には、
古277「心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花」(凡河内躬恒)

「この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちもこれなき駄歌に御座候。この歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣きづかい無之候。」
五たび歌よみに与ふる書

「嘘うその趣向なり」と身も蓋もないことを平気で言ってしまいます。この嘘を真に受けてしまっては、和歌なんて文芸はそもそも成立しません。
が、この単純な悪口にむしろ清々しささえ感じるのは私だけでしょうか。

「歌よみの如く馬鹿な、のんきなものは、またと無之候。」
三たび歌よみに与ふる書

「和歌といへば、直ちに陳腐を聯想致候が年来の習慣にて、はては和歌といふ字は陳腐といふ意味の字の如く思はれ申候。」
七たび歌よみに与ふる書

もうね、ボロクソですよ。よくもこれまで罵詈雑言を並べられるものです。
にしてもこの悪口の対象「「歌よみ」とは誰を指しているのでしょうか? 実は散々吊るし上げている「貫之」ではありません。その正体は…

「御歌所とてえらい人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐るにもあらざるべく候。今日は歌よみなる者皆無の時なれど、それでも御歌所連より上手なる歌よみならば民間にこれあるべく候。」
十たび歌よみに与ふる書

「御歌所」とは明治初期に設置された宮内庁の組織、そう子規は二条派の流れを汲む常上歌壇を叩くために、その存在の根拠である「貫之」ならびに「古今集」を執拗に攻撃していたのです。
まどろっこしいことは置いておいて、いきなり本丸に切りかかる! これこそが子規の戦略でした。それにしてもなぜ、これほど執拗に古典和歌を攻撃したのか? 本心はこの一文にあるようです。

「従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁と為なさんとするは、弓矢剣槍を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行はるべき事にては無之候。今日軍艦を購ひ、大砲を購ひ、巨額の金を外国に出すも、畢竟日本国を固むるに外ならず、されば僅少の金額にて購ひ得べき外国の文学思想抔などは、続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。」
七たび歌よみに与ふる書

古典を脱却し、古今東西に通ずる日本文学の新たな礎を作る。子規が目指したのは、つまるところ日本文学の近代化であったのです。※これは後に、詩歌の写生主義として結実します。
私が「歌よみに与ふる書」に抱いた爽快感は、清々しいまでの悪口と明治という開花期を躍動した子規の情熱であったわけですね。

さて、子規の目論見通り1947年に至って御歌所は廃止。
古典和歌は絶滅してしまいました。
めでたしめでたし、と言えるでしょうか?

私にはそうは思えません。
子規が唱えた「写生論」は、その観察者たる「われ」を解放し、現代短歌に継承されていったわけですが、今やその「われ」は大暴発! 「われ」「我」「ワレ」と彷徨って、しまいには独り言(口語)に到達してしまいました。
つまり現代短歌は歌うことを辞めたのです。

そこに揺り戻しをかけたい。そんな思いも含め、私は蒼白を舐めるがごとく活動をしています。
それでも、子規とは仲良くできると思っています。
なぜなら彼が語る歌の本意に、私はやはり共感してしまうのですから。

「ただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候。」
十たび歌よみに与ふる書

→「歌よみに与ふる書」(青空文庫)
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