靡きかへる花の末より露ちりて萩の葉白き庭の秋風(伏見院)
古今から新古今に至る過程で複雑さを増した和歌文学であったが、さらに時代を下った玉葉・風雅和歌集になると難しいところがめっきりなくなって親しみやすい。これは新古今とは正反対に風景またその感想が純粋に歌われているためだ。むし...
古今から新古今に至る過程で複雑さを増した和歌文学であったが、さらに時代を下った玉葉・風雅和歌集になると難しいところがめっきりなくなって親しみやすい。これは新古今とは正反対に風景またその感想が純粋に歌われているためだ。むし...
新古今歌の四季歌が難しいのは、一首が純粋な風景またその感想ではないことに起因する。風景がつまり暗喩であり心象であり悲劇の象徴なのだ。三十一文字という短詩形においてそれを可能とするのは、一語一語の言葉に秘めた含蓄力によるも...
いつから和歌は、こんなに虚しくなったのだろう。それは新古今のひとつ前、千載集がその分岐点だ。『私に寄りかかる儚さは、秋の夕暮れに置く袂の露のよう』。三代集を主として、「露」は秋を秋らしく染める風景のひとつであった。しかし...
二十四節季もそろそろ白露になるころだ。近年では残暑長く、朝露はまだ目に遠いかもしれないが本来は秋も本番を迎える。さて「露」は草木に置くものであり、あくまでも脇役だと思うかもしれない。しかし和歌で「露」は千変万化に立ち回る...
かくも女郎花は愛されていた。女郎花から「女」への連想はついぞやまず、平安時代を渡って男たちは妄想と思慕を続けてきた。ちなみに奈良時代の万葉集では、女郎花にこれといって女を見ていないから面白い。今日の歌は金葉集から顕輔によ...
和歌で特に好まれる色、それは雪月花に代表される「白」だ。次点は「青」そして「緑」あたりだろう、実のところ「黄色」なんてのはあまり人気がない。だから春の「山吹」、秋の「女郎花」などは貴重な黄色い風景なのだ。今日の歌は、女郎...
なんとも牧歌的な歌だ。昨日と同様、女郎花という名から「女」に譬えるという安易なレトリックでもって、「野辺で今夜添い寝しちゃった」というのだからおめでたい。くだらないだろうか? 私は大好きだ。とかく和歌などと言うと無常への...
今日から数首「女郎花(おみなえし)」の歌をご紹介しよう。詠み人は遍昭、僧正という僧官の最上位にありかつ仮名序では六歌仙の一人に挙げられる。そんな一角の人物が詠んだ歌がこれだ、『名前が愛らしくて手折っちまったよ女郎花、よも...
『日暮れまで僅かに残っていた庭の萩の花、月が出てきたので見に行ってみるとなくなっていた。ああ悲しいなあ』。他愛もない歌である。しかしすごく引っかかる歌である。花の儚さを歌にするのならこの時期なら朝顔があるだろう。しかし実...
例によって適訳不要の歌、永福門院である。「散る萩の花」、「秋風」、「夕日」… 情趣を誘う秋の景物がこれでもかと詠まれている。ただ自然体を理想とする彼女にしては少々演出過剰ではないか? しかも結句「壁に消えゆく」など鼻につ...
昨日の歌はよほど胸アツだったのだろう、躬恒からおよそ三百年後の女性がこんな本歌取りをしている。『私はよっぽど萩の古枝よ! なんで本心を聞いてくれないの!?』。採られたのが風雅集というものあるが、四季歌の範疇をはるかに越え...
『萩の古い枝に咲いている花を見ると、あなたへの真心は昔と変わらないことに気づく』。歌のポイントは「古枝」である、萩の枝はいくら古びようと、そこに咲く花の美しさは不滅だ。詠み人は凡河内躬恒、萩の花に仮託した口説きの文句であ...
藤原敏行は貫之や業平らを凌いで誰よりも古今集らしい古今歌人といえよう。貫之や業平はその実、かなり個性をはらんだ歌人であり典型の枠に収まらない巧みな変化球がある。その点、敏行はいつも直球勝負、ありがちで耳障りの良い古典的風...
今日の歌にも詠まれているが、秋といえばあらゆるものに置くのが「露」だ。ところで主題が変わったことに気づいただろうか? 昨日までは「荻」で今日のは「萩」だ。「くさかんむり」の下が前者は「けものへん」、後者は「のぎへん」であ...